「ほくほくです!」
「……そりゃドーモ」

 数曲分弾き終えれば、数瞬置いてから、今まで呼吸音すら絞っていた春宮が華やいだ声を上げた。答える声が尻すぼみになるのは、割といつものことだった。実績だの経歴だのという余計なフィルターを通して見ない素直な賞賛に、未だ慣れないでいる。

「……やっぱり北条くんの音は違いますね。どうしてなんでしょう。色が不快な重なり方をしていないから、濁らないのでしょうか」
「俺は俺の音が他の演奏者のものとそこまで違うとは思えないけどな。多少違うとはいっても、個性や表現の範疇だ。そもそも、どういう違いなんだ? 奇麗だ奇麗じゃないっていうのは」
「言葉では言い表しにくいのですが……そうですね。普通、音が伸びたり重なったりすると、不快な色の混ざり方になることが多いんです。音の色それぞれが汚いということはありませんよ。色も闇雲に混ざれば、ただくすんだりしますよね。色の三原色は混ぜると黒くなる、完全な補色を混ぜると黒くなると言いますが、絵の具でも、いくつかの色を混ぜても完璧な黒になったりしないでしょう? あんな感じの、泥水みたいな色が脳裏に次々映るんです」
「和音が不快だと?」
「和音というよりは、音の重なりが。和音の上に左手が混ざると、もう混沌としかいいようがなくなります。あれこれ混ざったり元の色に戻ったり、視界がごちゃごちゃするんです。
音が散らばっているだけの、簡単な……たとえばきらきら星などを右手で弾くとするでしょう。あれくらい簡素だと、全然平気なのですが」
「わからねぇな。俺が弾いても音の重なりは当たり前のようにあるだろうが」
「それはそうなのですが、北条くんの音の場合、あまり無闇に混ざらないというか……。和音の場合でも、叩かれた鍵盤の音が同時にそのまま光線みたいに放たれたり……色が混ざった時も、どちらかといえば色の、というよりは光の三原色のような混ざり方をするというか……」

 目を閉じた春宮は懸命に記憶を辿り、言葉を探しているようだった。
 説明をされても、やはり実際に見なければ想像するにも難い。――彼女だけに見ることができる、特別な世界だ。

「色聴の持ち主は、クラシック曲がみんなそういう見え方になるのか?」
「さあ、私にはなんとも……。共通部分はあると思いますけど、一致することはないと思いますよ。色どころか、映像まで見える方までいらっしゃるようですから」
「そうか」

 ヒトの脳の機能は千差万別、か。まあそれも当たり前のことだろう。
 するとそこで、春宮が珍しくおずおずと「あのう」と声を上げた。

「……なんだよ」
「ええとですね」

 明らかに目が泳いでいる。――猛烈に嫌な予感がした。

「懺悔したいことがあります」
「……なんだよ……」

 嫌な予感が当たる予感がする。二の腕の鳥肌をさすりながらもう一度聞くと、春宮は唐突に一枚の紙を取り出した。紙からは死地への召集令状のような瘴気を感じる。

「実は……」

 その先を言わず、春宮はただこちらに取り出した紙を差し出した。渋々受け取り書面を読み、驚愕に目を見開く。何故なら、そこには。


「は……? 『ソフィアピアノコンクール予備審査通過通知』? いや待てなんだこれ!」


 ソフィアピアノコンクール。全国チェーンの楽器店がスポンサーになっているコンクールだ。下は小学生上は大学生まで、部門別の参加が許されており、学生参加のコンクールにしてはなかなかの規模を誇る。関東圏の、ピアノを学ぶ学生には知名度も高い。

音源審査による予備審査(一次予選)、予選(第二次予選)、本選のかたちで進むようになっており、本選で上位入賞すればかなりのステータスになる。――が。

「どういうことだこれ……! 俺はこんなものに応募した覚えなんてねぇぞ……!」

 宛名は間違いなく北条奏介、つまり俺のものだ。しかし、本当に応募した覚えが一切ない。そもそもコンクールに応募なんてするわけがないのだ。ソフィアコンは規模が大きい、下手をすれば――。

「まさか……春宮お前……」
「よもや私の雑な録音で本当に通ってしまうとは……」
「ふッッッざけんな!」
「し……審査ではレコーディングの質は問わず演奏者の技量のみを見るとありましたが、さすがにそんなの絶対建前でしょう、なんて思っていました。……でも意外と信用ができるかもしれませんね?」
「オイ……」

 冗談ではない。どこに本人の許可を得ずにコンクールに応募する他人がいるというのか。

「そもそもどうやって応募した……? こういうの、本人の許可はいらないのかよ?」
「ソフィアピアノコンクールの予備審査はお金がかかりませんし、エントリーも応募フォームに入力して、音源を事務局の住所に郵送するだけでいいですから」
「はあ!? じゃあ音源はどうやって手に入れ……」

 そこまで言おうとして、はっと息を呑む。心当たりがあった。家や美術室やらで聴きたいから録音させてくださいと頼まれ、許可を出したことがある。そして、コレコレこういう曲を聴かせて欲しいと頼まれれば、基本的に応えてやっていた。春宮からすれば、課題曲をリクエストするだけで、十分に予備審査用の音源が出来上がる。

「え、っと、ハイ。焼きました。CDに。それで送りました……」
「お ま え は ……」

 頭痛がしてきた。
 今後ステージに立つつもりはない。表舞台に戻るつもりはない。あれほど言ってきたことだ。俺の言ったことを忘れていたなんてことは絶対にあり得ない。
わざと、やったのだ。……でなければ、わざわざ俺に黙って音源を応募したりはしない。
心臓の辺りがすう、と急激に冷えていく。

「……嫌がらせのつもりか?」
「そ……違います! そんなわけないじゃないですか!」

こちらの声音が変わったのを察したのだろう、春宮が顔色を変えた。
泳いだまま一向に合わなかった目が、焦ったようにこちらに向けられる。

「じゃあ、どういうつもりでこんなことをしたって?」
「か、勝手に応募したことは謝ります。でも、私は、ただ……」
「謝る? 俺に黙ってた時点で確信犯だろうが」
「そ、それはそうかもしれません。ただ、私は……」

 続きを口にするのを躊躇うように、春宮が視線を下げる。
膝の上で握る拳に力が入ったのが分かった。――しかし、ややあってから。こちらの冷ややかな視線にも負けず、彼女は真っ直ぐに俺を見た。


「ステージでピアノを弾く君をもう一度見たかった」