いつもは無視をするスマホのアラームで目を覚ました。甲高いミ♭の連続。


「……うっせ」


午前六時半。ゆっくり準備した上で、さらに朝のホームルームに出席するのに十分間に合う時間だ。

だのに、妙に目が冴えている。
我ながら殺風景な部屋だが、その端にある空の本棚に昨日渡されたぬいぐるみを置いてあるのが、ひどく奇妙な気がした。
起き出して着替え、一階のリビングに降りると、母が驚いたような、気まずそうな顔でこちらを見た。母も大概朝は早いのだ。

「今日は、早いのね」
「まあ」
「……学校、朝から行くの? 珍しい……」
「目が覚めたから」

腫れ物に触るような態度だが、俺たち母子の関係性がぎくしゃくしているのは、今に始まったことじゃない。……それに、無理もない。
というかそもそも、父が妹を連れて出ていく前から、母は家族全員に対していつも後ろめたそうにしていた。困ったように、伺いを立てるように、身を縮めて。

「奏介。朝ごはん……」
「いらない。……もう作ってんなら、食うけど」
「ううん、まだだけど」
「ならいい。学校行く」

登校には明らかに早すぎる時間だったが、逃げるように家を出た。母の発した、「行ってらっしゃい」という声を遮るように玄関扉を閉める。

……夜遅く帰っても、外泊しても、素行不良で教師が電話を入れても、俺を叱ることは殆どない。困ったような目をして、こちらを見るだけだ。

家族と上手く会話ができないのは、母だけでなく俺の方だってそうだった。ある種――息子の行動を咎めないという意味で――冷淡な母にうんざりすることもなければ、情が薄いと非難することもない。

そも、俺の素行不良は反抗じゃない。家に帰るのが気まずいからだ。

四年前から、『宝生』だった名字は、母の名字である北条に変わった。

――母さんは、俺のせいで親父に捨てられたのだ。

いまだ出て行った父の気配のする家に、母と二人でいることは息が詰まる。




 *



大通り沿いの通学路は、なかなか人通りが多かった。朝に部活ある学生や、勤務地の遠いサラリーマンは忙しなく往来を走っている。

朝早い時間、こうして外を歩くのは久しぶりで、ぼんやり周りを眺めていると、学生たちはこちらを見て少し恐ろしそうな顔をする。……俺はそんなに目付きが悪いか?

だが、まあいいか、とすぐに思い直す。どうでもいいことだ。そんなことは。

――ここ数年、俺はずっと無気力なまま生きている。何をしても楽しくなく、家にも帰りたくないからと夜遅くまで外にいることを続けていたら、いつの間にか不良だのヤンキーだのと言われるような存在にされていた――なっていた。

暴力を振るうことが好きという訳ではないが、喧嘩は嫌いではない。誰かの殺気やら土岐やらを受けて、僅かでも緊張している間は、耳の奥で鳴り続ける音を忘れられる。
俺の頭蓋骨の裏には、昔よく聞かされた曲が風呂の垢汚れよろしく手強くこびり付いている。俺自身が何かに呑まれていなければ、ずっと響いているのだ――ショパンのエチュード、10―12。疾走する左手のアルペジオ。

色褪せ、堕ちた、ピアノの音。


「って!」

と、その時だった。突然、右肩に何かが当たった。

いや、何か、ではなく人がぶつかって来たのだと知る。向かって右にあるショーウィンドウを正面に立ち、そのまま横を見ずに後ろに歩いたところ、周囲の視界がお留守だった俺に衝突した。そういうことのようだ。
そしてぶつかってきたのは、小柄な女のようだった。特別背が高い訳ではない俺の肩に頭がぶつかった。子どもかもしれない。

「おい……」

……が、さすがに何も言わないのは違くねぇか。

周りをろくに見ずに後ずさってぶつかったんだから何か言うことがあるだろ。
と、文句を放とうとしたところで、目を見張った。小学生かと思っていた彼女が、自分と同じ鳴葉第一中の制服を着ていたからだ。
しかもセーラー服のタイの色は臙脂――三年生、つまりは同学年だ。

「あら」ようやく女がこちらを向いた。「……そんなにじっとこちらを見つめて。何か御用ですか」

 何か御用ですかじゃねえわ。
 頬が引き攣った。自分がぶつかったことに気づいてないのかこの女。
 
 が、女子相手に怒鳴り声を上げる訳にもいかない。

「……ご用があるから声掛けてンだよ」
「おや。もしかして愛の告白ですか?」
「ハ?」

 困ったように――というか、わざとらしく口元を手で押さえてみせる女子。腹の立つ仕草であった。「あ……でもごめんなさい。私は今、恋愛をしている暇はなくて」

 冗談じゃねえわボケナス。
 と、思ったが口には出さなかった。「――なんっっっっで好きでもねぇどころか名前も知らねぇ奴から唐突にフラれなきゃいけないんだよ。意味わからんわ」

「名前も知らないというのはさすがにひどくないでしょうか。憤慨です。同じ学年だっていうのに………………まあ私も君の名前は知らないのですけど」
「知らねぇのかよ」

 なんなんだ本当に。
 こっちが憤慨だよ。いきなりぶつかられて謝罪もなし、しかもおかしな絡み方をされて。これで相手が不良で男だったらとっくに急所を蹴り飛ばしている。

――こちらの苛立ちをよそに、意味不明な女子はぷんと頬を膨らませた。

「仕方ないでしょう。私は人の顔と名前を覚えるのが苦手なんです」
「そんな胸張って言うことかよ」
「私、昔から、興味のないことは覚えられないたちなのですよね」
「……」