「……で。ちゃんと用心してここまで来たんだろうな。誰かに見られてないだろうな」
「もー、ちゃんとしてますよう。というか、どうしてそんなに周りの目を気にするんですか? 言いたい人には好きに言わせておけばいいじゃないですか」
「いいわけないだろうが……」


 あれからしばらくして。

六月も半ばにさしかかると、春宮は遠慮もほとんどなく、よく一人で家に乗り込んでくるようになった。一人でだ。男の家に一人で。……もちろん目的は、ピアノを聴きにくること、ひいては絵を描くことではあるが。

母親が厳しいという春宮は、家で絵の作業をすることは滅多にないと言う。だからか、塾のない金曜日に学校からそのままこちらの家に来て、ピアノを聴いて、デッサンをして、時折塾の課題や学校の宿題をやって帰っていく。
念のため帰宅時間は変えているものの、情報通による怜音によれば、訝しく思う生徒も割かしいそうだとのこと。

(ピアノ聞かせるために一度でも家に上げたのが間違いだったか……いやだが、ここ以外でピアノを弾く場所なんかねぇしな……)

 なんともままならないことである。

「うーん。なんとなく予想はついていましたけど、北条くん、結構気にしいなんですねえ。しかも私が来る金曜日はいつも、お母様がいらっしゃるじゃないですか。何もやましいことなんてしていないわけですし……あっ、お邪魔しております!」
「あら、美涼ちゃん。いらっしゃい」
「内実の話をしてるんじゃねぇんだよ……」

こちらにやましいことなど何一つなかったとしても、もしも春宮美涼が北条奏介の家に入り浸っているだなんて一度噂が立ってしまえば、収拾がつかなくなる。前者は学校の誇る天才美少女として、後者は素行不良の生徒として、それぞれ意味は違っても名が知られているのだ。有象無象の噂の種になるなんざ真っ平ごめんである。

スケッチブックやら画材やらを入れた鞄を持ったまま、呑気な顔をしている春宮を、とりあえずは防音室の中に入れる。もちろん、消しゴムのかすや黒鉛が鍵盤に入り込んではまずいので、彼女がここで絵を描くわけではないが。
防音室の壁は吸音するように工夫して造られているため、普通の壁に使われるビニールクロスや紙クロス、漆喰などのどれとも手触りが違う。うちの防音室にはグランドピアノを置いているためにやや狭苦しいが、それでもピアノ演奏者の他にバイオリン奏者がひとり入って、アンサンブルができるくらいの余裕はあった。

「北条奏介と親しい奴だなんて思われて、教師や他の不良どもに目をつけられても知らねぇぞ」
「不良の方々はともかく、一部の先生にはすでに目をつけられているかもしれませんねー」
「は?」
「実はこのあいだの数学のテストが終わってしまっておりまして。フィニッシュの方でなく」
「おッッ前」

ビシッと親指を立てて見せる春宮に、額がびきりと音を立てたのを聞く。今年は学校側の都合で例年よりも期末が早い。テスト期間も近いと言うのに、何をそんなに呑気でいるのか。

「お前、母親が厳しいんじゃなかったのか。だから学校で自習するとか言ってうちに来てるんだろうが。第一志望、いいとこなんだろ?」
「……学校で、というところ以外は嘘じゃないではありませんか。実際、勉強することもあるでしょう?」
「ほとんどねぇだろ」

 そもそもの話、春宮はあまり授業を聞いていないらしい。共感覚を意識的にシャットアウトしなければ、どうしても感じる色を意識してしまい、集中力が散漫になってしまうというのだ。
 頭の回転が悪くないことはわかっているので、やれば勉強もできそうなものだが。実際、たまに宿題を見ていても記憶力は悪くない。むしろいい方だ。真面目にやればできそうならば、真面目に勉強すればいいのにとは思う。

(まあ、共感覚者の苦悩なんて俺にはわからないからな……)

 ただ、決して楽ではなかっただろうというのは想像がつく。得てして、共同体の中の異物は排除されやすいものだ。俺はたまたま音楽に深く関わっていたから、共感覚というものを知っていた。認知されていない『特殊』は『異質』とほとんど同義になる。
 俺も多少、覚えがある。『天才』もまた――『異質』だ。

「……お前の第一志望、どこだったっけ?」
「鳴葉高校ですけど」
「本気で言ってるのかお前」
「そ、そんなドン引きしなくてもいいじゃないですか……。今のままじゃまずいのはわかってますよぉ。でも、別にそこまで行きたい高校じゃないので、あまりやる気が出ないんですもの」
「なんでそこまで行きたくないのに地元トップ校を第一志望に掲げてんだよ……」
「いいじゃないですか理由なんてなんだって。むしろ、北条くんの志望校はどこなんですか? ガリガリ勉強しなくても学年十位を保っている北条くんの行きたい高校、教えてくださいよ」
「聞き方に悪意を感じるんだよ……」

 唇を尖らせ、わざとらしく頬を膨らませてみせた春宮を前に、頭を掻く。「別に、どこでも」

「別にどこでも……は、入れるってことですか⁉ う、うわあ……言いように引きます……」
「勝手に人のセリフを解釈して勝手に引いてんじゃねぇよ……いやまあ、」
「やろうと思えば入れるけど……?」
「言ってねぇ」

 とはいえ、あながち間違いというわけでもなかった。

 高校受験は公立の場合、二次試験が課されることはあまりない。公立高校入試は範囲が広い代わりにえげつない難易度の問題は出てこない傾向にある。だから対策をすれば怖いことは何もない。
 東京にあるような、化け物じみた偏差値の高校に入れと言われれば話は別だが、そもそも俺は都民ではない。

春宮がフゥ、と悩ましげな溜息をついた。

「君みたいな人は、前日に一夜漬けをして試験に臨むなんてこともないんでしょうね……」
「は? 一夜漬けなんかしたところで、内容はまったく身につかねぇだろうが。無意味だろ」
「う、うわー……創作でなくて本当にそんな優等生発言を真顔でかます人がいるんですね……引きます……」
「お前ほんとやかましいな。帰るか?」
「嫌です」
「……」

 いちいち腹を立てることにも疲れる。

 相も変わらず傍若無人な天才美少女様にげんなりしていると、ふとその春宮が姿勢を正し、部屋の隅にある椅子に腰かけた。――定位置だった。彼女がピアノを弾くときの。
背筋を伸ばし、顎を引けば、彼女はやはりそこにいるだけでも不思議なオーラを発する。それはきっと、春宮美涼という少女のある種のカリスマなのだろう。

「……とりあえず、聞かせてください。私の女神様」
「女神様じゃねぇ」

 吐き捨てつつも、ピアノに向かった。
心が凪ぐ。音が響く前の心地よい静けさが、場をひたひたと満たしていく。


鍵盤に手を添えた。
――そして、一音目。