――世界がきれいだと感じたことは、今までほとんどなかった。

 母親の目を盗んで、美涼はトーク画面を開いたまま素早くメッセージを打ち込んだ。送っていってもらう、ということを受け入れた時点でこうなる可能性もあるとは思っていたので、打ち込む内容に迷いはない。
 そして送信ボタンを押したと同時、目の前の母親がこちらを振り返った。冷ややかな目つきに、久しく足が竦んだ。

「美涼。スマホを渡しなさい。しばらくお母さんが預かるわ」
「……はい」

 硬い声に、やはり言われたか、と思いつつスマホを渡す。……これでしばらくスマホでのやりとりができなくなる。あらかじめお礼と謝罪を送っておいてよかった、と思う。

 ――くすんだ色。お母さんはいつだって寒色がくすんだ色か、重たい黒色をしている。

 人の声にも音がある。音があれば色が視える。機嫌と、声音によって明度が上下する。重苦しい空気もあいまって、美涼は常に母親の声に黒を見ていた。

「まったく、信じられない。あの成績で、どうやったら遊び歩くことなんてできるのかしら」母親は溜息交じりに、吐き捨てるようにして言った。「お母さんだったら恥ずかしくて、とても外なんて軽々しく歩けないけれど」
「ごめんなさい」

 こうなったら反抗するだけ無駄だ。

 美涼はそのことをよく知っていた。一度反論したところで数倍にして打ち返され、挙句の果てにこちらが忘れている過去のことまで遡って説教が始まるのがオチだ。ならば、はじめから反論するだけ不毛なのだ。
ごめんなさい、と美涼の発した声もばらばら、と色を零れさせた。群青。ごめんなさいの「い」だけトーンが下がったからか、くすんだ水色が零れる。汚い、と思った。――自分の声すら、きれいなものに思えない。美しく涼しい、だなんてとんでもなかった。世界の音は、皆汚い。

「それに、さっき来たあの子。なんなの? あの不良っぽい子は。耳にピアスまでして。どうしてあんな子と付き合うようになったの。付き合う人間は選びなさいってあれほど言ったわよね? 親御さんもどういう教育しているのかしら」
「……彼は成績優秀者ですよ。耳は……耳で勉強するわけじゃないでしょう」
「校則違反でしょう。素行が悪い生徒と付き合って、あなたのためにならないわ。即刻縁を切るのね。教えてもらうなら他に優秀な子もいるではないの。……いえ、そもそも塾を増やせば、わざわざ同じ年の子に教わる必要もないわね」
「お母さん」

 さすがに声を上げる。甲高い音が空気に消えるのと同時、ヴァーミリオンが散った。塾に通う日は最近増やしたばかりだった。美術部にあまり行けなくなったのは、そのせいでもあった。
 これ以上塾の日を増やせば、絵を描くことができなくなってしまう。

(また、あの音を聴けることになったのに――!)

 濁った音ばかりの世界で、彼の音だけが清涼に視えるのに。
 ピアノだけじゃない。声の色も落ち着いていてうつくしいのだ。

 彼の声は紫色だ。藤色、葵色、菫色、トーンや速さで色味は変わるものの――美涼の描いた『幻想』の炎のような、澄んだ紫色をしている。

「美涼」母親が身をかがめ、美涼の目を凝視する。「お母さんはあなたのためを思って言っているのよ。そもそも、もう三年生の夏前だということ、わかっている?」
「……わかっています」
「いいえ、わかっていないわ。この時期から、他の受験生もブーストをかけるのよ。もっと頑張らないと駄目なの。……あなた、今の成績が、どれほど第一志望の合格ラインからかけ離れているかわかっているの? よく遊び惚けていられるわよね。信じられない」
(『誰の』第一志望ですか、それは)

 思わず心の中で反論した。

 市内でトップ、県内でも指折りの進学校――そこが『美涼の』第一志望の進学先である高校だった。確かに美涼の今の成績では到底足りない。どころか、学年十位の彼の成績でも、合格ラインに入るかは微妙なところだった。
 しかし、まるきり無謀というわけではないだろう。だが――。

「いい成績を取れないのなら、くだらない絵なんてとっととやめてしまいなさい」
「……っ」
「すべきことを果たさない人間に、好きなことをする資格はないわ。本当、中学で部活動に加入することが義務じゃなかったら、課外活動に参加して勉強時間を減らすなんて許さなかったのに……」

絵なんて人生の何の役にも立たないでしょう。吐き捨てるように言う母親に、言葉を返す代わりに拳を握り込んだ。切り揃えた爪が手のひらに食い込む。
 
母親の言葉はある種の真理だ。芸術は、心の底からそれを要らないと思っている人間の役にはとことん立たない。芸術が心を救う時は、あくまでその人の感じる心の持ちようが、それらしい形をしていた時に限る。万民を救う芸術など存在しない。


 ――けれど。
 芸術が個人の生きがいになることもあるのだ。誰かの救いになるともあるのだ。
 かつての宝生奏介のピアノが、春宮美涼のことを救ったように。


「お……お母さん。でも、私、美術で結果を残しました。この間のコンクールで金賞をとったこと、お母さんも知っているでしょう」
「それがどうしたと言うの」

 母親の声は、やはり冷たく響いた。

「学生のコンクールで賞を取って、だからなんだと言うの。ささやかな賞金とささやかな名誉。そしてちょっとした内申点。ただそれだけ。長期的に考えればほとんどないに等しい結果。将来には全く繋がらないわ。愚にもつかない小さな内申点の向上より、成績を伸ばした方がよほど有意義に決まっているわ」
「それは……ですが……」
「まさかとは思うけど美涼、あなた、そちらの方面に進みたいなんて言うつもりないわよね?」

 ひゅ、と息を呑んだ。……そう、ではない。そういうわけではない。正直なところ、今まで進路についてはあまり考えたことはなかった。母の言う第一志望に合格できるとは思っていなくとも、言う通りにしても、まあいいかと思っていた。だが。

「だったら美術のコンクールの結果がどうのだなんてくだらないことを言っていないで、とっとと勉強に戻りなさい。今日遅れた分を早く取り戻さないと」
「はい……」
「あなたは昔から、おかしなことを言う子だったわ。喋り出すのも遅かったし、そもそも誰かの声を聴くのにむずがった。音楽がいいのかと思って聴かせたのも嫌がった。少しは話せるようになっても人の名前を覚えられない、誰かの言ったことや言いつけを守れない。お義母さんたちに、この子は知能が遅れてるんじゃないかって、何度もそう言われて……」

 あなたは昔から出来の悪い子なのだから、と、言う。

そうなのだろう、と美涼は思う。父方の祖父母は二人ともエリート志向の高い教師で、何かと覚えの悪い孫に苛立ちを覚えていたらしい。母がそれで肩身が狭かったのも知っている。

(名前を覚えるのは……)

 昔から、苦手だ。――そして、昔の方が苦手だった。

完全にとは言わずとも、今はある程度自分の意志で抑えることができるこの共感覚という『特殊なちから』も、昔は本当にどうしようもなかったのだ。人の声に色が被さって見えるから、汚く見えれば遠ざかりたくなってしまう。そうでなくとも、話した内容そのものではなく色に注目してしまうから、脳に刻み付けられるのも相手の名前ではなく色なのだ。保育園から小学校低学年の間は、友達がろくにできなかった。どうしても名前を憶えてくれない子と友達になりたい子はいない。
だから、美涼は常に『変な子』だった。

どうして何も覚えられないのと怒鳴られても、そんなことがわかるはずがなかった。
――子供の頃は、自分の視えているこの世界が、他の人の当たり前ではないということを、知らなかったのだから。

「美涼。あなたはね、お母さんの言う通りにしていればいいのよ」

授業も、ごくたまに嫌になる。色を視ないようにと意識はしていても、どうしても感覚が研ぎ澄まされる時がある。……教師の声だけならまだましでも、さざめきが視界にうるさいのだ。同様の理由で、集団行動も人ごみも苦手なままだ。静けさが好きだ。自分の作品づくりに集中し、筆や鉛筆の音しかしない美術室。誰もいない朝の音楽室。

「……はい」

 奥歯を食いしばる。親に養われている限り、どんな形にせよ守られていたことがある限り、子の立場はどうしても弱い。
 好きなことを好きだと思い続けることにも、好きなことを好きだという思いだけで続けることにも、限界がある。……それは確かに美涼にとっても、そして恐らく北条奏介にとっても、紛れもない真実だ。

(……でも)

 部屋に戻り、勉強机の前に座る。そして、スクールバッグに入れたままのファイルを取り出した。手に取ったのは、一枚のチラシ。美術の夏木先生に渡された、全国規模の絵画コンクールの案内だった。
モチーフ・テーマは自由。条件はサイズの指定と、平面であるということだけ。……そしてこのコンクールで優秀な成績を取れば、県内の有名美術科への推薦を貰えることが確実となる。

(これでいい成績を取って、認めてもらえれば……)

 ぎゅ、とチラシを持つ手に力が籠もる。

――こちらの意思に関係なく、他人の評価が必要になることは、あることにはある。

それは、こういう時のことだった。