ちょうど帰宅したところ、玄関先でスマホが振動した。ロックを解除すれば、春宮からのメッセージが届いたということがわかる。

『さっきはお恥ずかしいところを見せてすみません。テストの成績が悪かったから、決められた時間勉強するという約束を放棄して出かけてしまったので……』

 そして、すぐに二件目のメッセージ。『しばらく返信はできませんが、とにかく今日はありがとうございました』

「……完全にお前が悪いんじゃねぇか……」

 呆れて呟く。一体、何をやっているんだか。学生なのだから、親の心情としても勉強が優先なのは自然なことだ。
珍しく刺々しい春宮の対応から何かあるのかと思ったが、そうでもなかったらしい。
人の気配に気づかず外できつく叱るあの語調からは、あの母親の厳しさが伝わってきたが――まあ、他人が口出しするようなレベルではない。多少過干渉のきらいがあるようには思うものの、俺が気にするようなことでもないだろう。

「……奏介?」

スマホをポケットにしまったところで、耳に届いた母の声に顔を上げた。ちょうど夕飯を作っている最中だったらしい母は、見慣れたエプロンをつけている。

「おかえりなさい」
「あ、……あー、ただいま」

 面と向かってただいまと言うのは、久々な気がする。今まで、挨拶にもおざなりな応え方しかしていなかった。
 母はゆっくり一度瞬きをすると、ふと俺の手元に視線を移す。

「奏介、それは……」
「……あ、」

 はっとする。
今、自分が持っているもの――それは、楽譜の入った、楽器店のロゴの入ったビニール袋だ。

 小学五年でピアノをやめ、家族がバラバラになってからの四年間、母は俺にピアノを弾かないのかと促したことは一度もなかった。それはきっと母が俺の心情を慮ってくれていたのもあるだろうが――また恐らく、お互いに父を思い出すピアノに敢えて触れたくないと考えていたからでもあった。

 ……しかし今、また、俺がピアノを弾こうとしていることを、母に知られた。
 いずれ知られることだ。だが、面と向かって指摘されるとひどく気まずい。母は俺のせいで割を食った人間のうちの一人だ。

「奏介」

顔を上げれば、母は少しだけ目元を緩めてこちらを見ていた。

「あなたの好きなようにすればいいのよ」
「え……」

 意外な言葉に目を見張った。

「反対、しないのか? 一回逃げたくせに、今さらって」
「しないわ。好きなことだって、やっていて苦しくなることもあるでしょう」
「……!」

 俺は、ずっとどこかで、母は俺を煙たがっているだろうと思っていた。
俺の勝手のせいで父と別れる羽目になったが、それでも、親としての責任があるから俺を引き取った。にもかかわらずその俺がずっと自暴自棄のままでいたから、どう接すればいいかわからず放置されているのだと。
 だが、そうではなかったのかもしれない。
 母は俺を、黙って見守ってくれていただけだったのかもしれない。

「今までずっと、不良そのものの素行だったのに」
「それは、そうだけど……。奏介は根っこが真面目だし、いたずらに人に迷惑をかけること、しないでしょう。成績もいいじゃない。家でちゃんと勉強してるわ」
「別に真面目なんかじゃ……。喧嘩もしてきたし、」
「この年頃の男の子なら、少しくらいは拳で語り合ったりするものじゃないの」
「いつの時代の価値観だよ……」

 唇を曲げれば、母は「大きな怪我だけはしないようにすれば、それでいいわ」と言った。
 ……それから、ああでも、と続ける。

「もう、大丈夫かもしれないわね。むしゃくしゃして、喧嘩を売られたまま買うなんてことは、もうなさそう」
「は?」
「それ」

 短く言った母が、俺の持った袋を指差した。


「今まであなたが『不良』でいたのは、ずっと物足りなさと怒りの持っていく方向がわからなかったからでしょう。でも、あなたは怒りも悲しみも、ピアノで昇華できる。

鬱憤を晴らすにはやっぱり……あなたにはピアノ(それ)が一番ぴったりだと思うわ」