楽器店を出ても日はまだ傾き始めたばかりではあったが、時刻そのものはもう既にそこそこになっていた。やはりこの季節は、日が高い時間が長い。このまま電車に乗れば、少し押し染の夕飯時に帰宅、といったところだろうか。

「北条くん、さっきの方々は本当にお知り合いではなかったのですか?」
「違う。……昔通ってた私立小の中等部のやつらってだけだ」
「はあ……」
「……あー、なるほどね」首を傾げる春宮とは対照的に、怜音は合点がいった、とばかりに苦く笑う。「そりゃ確かに気まずいわ」
「あら、北条くんは何かご存じなのですね?」
「まー、少しはねえ。俺ら、一応幼なじみの腐れ縁だしさ」

 かつての俺のように、ピアノ漬けの毎日を送っているであろう、妹。
今、彼女がどれほどの腕に成長したのか気になると同時に、どうしても感じるのは負い目だ。そして何より――自分から勝手に逃げていた分際で、妹に埋まらない差をつけられていたと知った時、自分が打ちひしがれてしまうかもしれないことが一番嫌だった。

年は近かったが、ピアノのことがあるぶん、反目することはあまりない兄妹だったように思う。お兄ちゃん、とよく懐いてくれたし、父に認めてもらおうと躍起になっている時には励ましてくれた。兄と比べられる煩わしさも、きっとあっただろうに。

「……妹が通ってるんだよ、あの学校には。出て行った父についてった妹が」
「そう……なんですか」
「別に親が離婚して、離れ離れだから気まずいってわけじゃない。俺があいつに負い目があるんだ。恨まれてるかもしれない。……だから、あんまり関わるべきじゃねぇんだ」

 響が俺をどう思っているのか、ピアノを捨てて生きていることをどう思っているのかは知らないが、少なくとも近づいて妹の益にはならないだろう。

「……負い目があるなら、それを晴らそうとは思わない……んですか?」

 控え目にだったが、相変わらず鋭いところをついてくる。思わず苦笑した。
 関わらない方がいいだなんて考えは、結局は俺の逃げでしかないのかもしれない。この期に及んで、俺は自分の都合で妹を恐れたまま前に進めていないのかも。

「会って謝ってもいいんだがな」

 負い目があっても、何を謝るべきかわからない。あの時の俺は、ピアノをやめることが最善だと思った。その選択がまったく間違っていたのかというと、それは違うような気がする。
 何を謝るべきかわからない状態で謝罪をされても、腹が立つだけだろう。

「意味も分からず謝って、気分が軽くなるのは俺だけだからな。それはなんか、違うだろ」

少なくとも、俺はそう思う。


 ――最寄り駅で電車を降りると、さすがに陽はほとんど沈んいた。昼が長くとも、陽は落ち始めると沈み切るのも早い。

「じゃ、俺らはここから徒歩なんだけど。美涼ちゃんは?」
「あ、私も徒歩です。バスでもいいんですが、あんまり本数がないもので……。自分で歩いた方が早いですしね」
「そうなん。でもそろそろ遅い時間だし……あっ」

 何かを思いついたような顔をした怜音がぐりんと勢いよく顔をこちらに向けた。……ろくなことを考えていなそうな表情である。

「俺はしばらくここいらフラフラするけど、お前はウチ帰るでしょ。送ってってやれば?」
「えっ」

 春宮が驚いたような顔をする。そしてどこか、困ったように眉根を寄せた。

「……別にいいが、なんでお前だけここでフケることになンだよ」
「だってさあ、俺ら二人がつるみながら帰ってたら絡まれるかもしれないじゃん? 俺ら雪村と北条でセットにされてるフシあるし、美涼ちゃんのためにもリスクはカイヒすべきよ」
「お前とセットに? ……気色悪いな」
「酷い! オブラートに包んで!」

 大して傷ついてもいなさそうな顔を両手で覆い、さめざめと泣くフリをする腐れ縁。
しばしの間冷ややかな目を向けていると、やがて怜音はうんざりしたように「ノリ悪いなあ」とこちらを見た。今さらだろうがそんなことは。

「あの、私……大丈夫ですよ? そこまで遠くはないですし」
「いや、万一ってこともあるしね。こっから数十分すれば真っ暗になるよ。だから奏介がついてくから。な? 奏介」
「……ったく、しょうがねぇな」
「いえ、でも、ご迷惑だと思いますし」
「別に迷惑ではねぇよ。実際ここらはあんまり治安もよくねぇし……」

 珍しいほどに遠慮を見せる春宮に、眉を寄せた。基本的に面の皮が分厚く神経も図太いこの女にしては、そこそこ不可解な態度だった。

「……何か一人で帰りたい理由でもあるのか? たとえば、男と二人で歩いてるのがバレたら親がうるさいとか」
「いえ、別にそういうわけでは……。じゃあ、あの、よろしくお願いします、北条くん」
「……、ああ」

 ぱっと笑顔になった春宮に、頷く。
……それでもやはり、彼女の表情にはどこか蔭があるままだ。一体何を気に病んでいるのか気になって、眉間の皺が意図せずより深まる。

「じゃ、俺行くから。あとはアーティストと女神様のお二人で!」
「誰が女神様だてめえ怜音!」
「雪村くん、また明日」

 やはり、あいつはいつか必ずシメる。