「じゃあ早速弾いていただきたい曲を選びたいのですがいいでしょうか!」
「いいでしょうかも何も」本日何度目かの深い溜息を吐き出す。「お前もう既に楽譜を手に取ってるだろうが」

 というかそんなに練習できるわけないだろ。
 眉間を摘み苦い顔でそう言えば、クラシックの曲集を五冊ほど手に取り目を輝かせていた春宮が、「ええ~」とでもいわんばかりの不満顔になった。……そんな顔しても、レパートリーは増えないし練習時間も確保できないんだよ。
 没収。とりあえず、春宮が集めてきた曲集は丁寧に棚に戻した。


 ――駅ビルの中に入っている楽器店。
楽器店とは言うが、この店がメインに取り扱っているのは楽譜や音楽理論の本だ。店舗自体はそこまで広くはないが、壁一面の本棚にぎっしり楽譜が詰まっている。

小五の時にはかなりの数があったレパートリーが、ブランクの四年でほんの数曲に減ってしまっている。そのため春宮の聴きたい曲に即座に対応することもできないわけだが――そもそも難曲をミスなく弾けるような腕でもなくなっているのだ。ピアノをまた始める以上、基礎的な技術を取り戻すためにも指の訓練はしなければならない。

「へえ……。ピアノの楽譜って想像以上にいろいろあるんですね。Jポップのピアノアレンジとか。こっちはボーカロイド、ゲームミュージック、オーケストラ曲のアレンジ……。ねえ北条くん、この陳列されているピアノやオルガンは弾いてみてもいいんですかね?」
「大人しくしてろ」

 いかにもピアノ初心者といった様子の春宮は、先程からきょろきょろと店内を見回し、あちこち動き回って商品を見ている。……ただ不本意ながら、挙動不審な春宮よりも店の注目を集めているのは俺と怜音だった。

「場違いじゃね的な視線うるさくて草。まあギターならともかく、ピアノって見た目じゃないもんね、奏介は」
「悪目立ちしてるのはお前の方だろ。明らかに中学生の背丈なのに目立つ金髪にしやがって」
「ただ立ってるだけで殺気飛ばしてると勘違いされるような目つきのお前に言われたくないね」

 打てば響くとばかりに憎まれ口を返してくる怜音に舌打ちしつつ、楽譜の背表紙を指で追う。

「指慣らしって何弾くの? ツェルニー? だったっけ。お前、昔弾いてたよな確か」
「ってところだな。四十番くらいがちょうどいいか」

 ツェルニーの練習曲はある程度ピアノを弾けるようになった弾き手がよく使う練習曲であり、全体的には初級~中級者向けと言われるが、何番の練習曲を選ぶかによっ難易度がまったく異なる。もっとも易しい百番ともっとも難しい六十番では天と地の差があり、前者がピアノ入門を終えたばかりの初心者でも弾ける基礎的な曲を集めたものだとすれば、後者は高校の音楽科や音大の試験に使われることもあるような難曲が多く集められているのである。

 五十番・六十番は一曲一曲がかなりの難度だ。ブランク明けの人間がウォーミングアップのノリで弾けるものではない。指慣らしとしては、そこそこの技術が必要とされるも五十番以上の楽譜よりは易しい四十番が難易度的にも適当だろう。

「けどお前、わざわざ楽譜とか買う必要あるの? 家に昔使ってた楽譜くらいあるだろ」
「……もうとっくに楽譜は捨ててるよ」

 父と母は離婚したが、出て行ったのは父の方だ。家族四人で住んでいたそこそこの大きさの家を母に残し、自分たちは俺と響が通っていた都内の私立校の近くへと引っ越した。俺たちは残されたそのまま住んでいるため、金額や家の造りから処分が難しいピアノや防音室は残っている。……だが楽譜なんてものは父が出て行ったその日に全て資源ごみになった。

「ふーん、そんなも 頷いて、かつて見慣れた藍色の表紙を見つめる。そして昔の自分が使っていた、表紙も中もボロボロで、書き込みだらけの曲集を思い出す。さまは全く違うが、もう一度これを譜面台に置いてピアノを弾くのかと思うと、やはりどこか懐かしい。

「……ああいう人たちもピアノを弾くのかしら」
「見えないわよね。バンドとか?」

 ふと、ひそめられた声が耳に届いた。怜音も気がついたらしく、ぱちりと男にしては大きな目を瞬かせる。
 ――女の声、それも同じ年くらいの若い少女の声だった。ついでにつけ加えれば、歓迎しているとは全く思えない声色でもあった。

狭い店内だ。他に客の様子も見えない以上、彼女らの言う『ああいう人たち』が誰を指すのかは明白だったが、見た目がらしくないのは今さらのことなので、露骨に振り返ることも視線を向けることもしない。……が。
そこで、「あれっ」と――無遠慮に声のした方向を振り返った怜音が、意外そうな声を上げた。

「なんだよ」
「いや、ほら奏介。あの女子二人の制服ってさあ、どっかで見たことない? あのジャケットの色とかリボンの色とかさ、俺すごい見覚えあるっていうかあ……」
「はあ? 五駅も離れた駅周辺の学校の制服なんて知るかよ――」

 その、女子二人とやらがいる方向を指さそうとする怜音の頭をひっぱたき、顔を上げ。
 俺はそこで息を呑んだ。

「……あれは」
「な! やっぱり見覚えあるよな、あの制服! あの焦げ茶色のジャケットとか……奏介?」

 怜音が黙り込んだ俺を見て、怪訝そうに眉を寄せる。

――見覚えがあるのは当然だ。
何故ならあの制服は、以前俺と響が通っていた私立校の中等部のものなのだから。

「……とっととここ、出るぞ。春宮の聴きたい曲は作曲者がばらばらだ。曲集を買うより別に個別でネットでも買った方がいいしな」
「え? あ、わかった、けど……」
「春宮、行くぞ」

 なんで、というように目を白黒させている怜音をよそに、店の奥にいる春宮に声をかける。すぐに「はーい」と返事をした春宮が、小走りに駈け寄ってくる。

 ――妹はおそらく、あの私立校の中等部にそのまま進んだだろう。偏差値はそこそこ高い方だが、響の頭は悪くない。それに何より、父がそれを望むはずだ。あの学校の高等部には、全国的にもレベルが高いとされている音楽科がある。
 ピアノから遠ざかっていたので、今、響がどのような功績を残しているのかはよく知らない。だが、響のことだ。相当な実績を積んでいるはず。と、なると。

(楽器売り場なんかに来る生徒には、あいつの顔と名前が知られてるはず……)

 俺は一度ピアノから逃げた身だ。そして妹はそんな俺のとばっちりを受けたのだ。
 ――響には、そして父には、俺がもう一度ピアノを弾くようになったとは知られたくない。

「戻りましたよー。北条くん、買う楽譜は決まったんですか?」
「バッ……」

 今、ここで、俺の名前を出すな! 
 何も知らない春宮にあっさりと名前を呼ばれ、血の気が引く。

「……ホウジョウ?」
「しかも、さっき『ソウスケ』って……」

そこで、女子生徒の存在に気付いた春宮が、軽く首を傾けた。

「北条くん、こちらの方々はもしやお知り合いですか?」

 素敵な制服ですねえ、と、名も知らぬ女子生徒二人の様子を眺める春宮。
女子生徒二人はそこにいるだけで不思議な華がある春宮に気圧されつつも、こちらに訝しげな視線を寄越してきた。……まずいかもしれない。

「……他校の女子に知り合いなんかいるかよ。行くぞ」
「え? いいのですか、彼女たち、どうやら君の名前を知っている様子でしたが……」
「知らねぇよ。人違いか何かだろ」

 言い捨て、ツェルニーの四十番を持ったままレジに進む。春宮は不思議そうな顔をしていたが、空気を呼んだ怜音が彼女の背を押して、とりあえず俺たちはその場から離脱することが叶ったのだった。

「ん。買い直す金がちょーっともったいないね」

 怜音はひどくあっさりと頷いた。

「でもさ。またやろうと思えてよかったじゃん?」
「……そうかもな」