「……なるほどね」苦く笑った怜音は、俺の父を思い出しているのかもしれなかった。直接言葉を交わしたことはないだろうが、人となりはきっと知っている。「なら、美涼ちゃんは?天才少女って呼ばれているプレッシャーみたいなものはある?」
「私は別にありませんけれども」

 ひどくあっさりとした回答だった。
 とはいえ、素直にやっぱりな、と思った。怜音はやや意外だったらしく、軽く目を見張る。

「そうなの?」
「ええ。私は芸術家というよりは触媒みたいなものですから。私の絵は、私の好きな彼の音をより多くの人に伝えたいがためのアンプみたいなものなんです。……ですから、重圧があるとしたら、私の腕が鈍ることで、北条くんの音の美しさを描くことが出来るか否か、そこに尽きますね。他人の評価は二の次です」
「つ、強い……」

 まったくだ。エゴの塊。……触媒だのなんだの言ってはいるが、春宮美涼という女の精神性はどうしても、我を貫く芸術家のそれに思える。

「……まあ。私の意思に関係なく、他人の評価が必要になることは、あることにはあるのですが」彼女はふと目を逸らして呟いた。「それでも私にとって、コンクールやコンテストの結果はそこまで重要ではありません。……重要か重要でないかといえば重要ですが」
「そんなもんなんだあ」

 無糖のアイスコーヒーに溶けた氷がから、と甲高い音を立てた。グラスの外側を水滴が滑り落ち、紙のコースターを濡らす。
 半分ほど減ったグラスの向こうで、またピアノに誰かが近づいた。鍵盤に触れ、適当な音を立ててから離れる。友人に促されて一度椅子に座ってみた学生は、結局弾かずにピアノを離れた。恥ずかしげにしているその様子を見て、目を細めた。

 ――普通はそうなのかもしれない。
自分の演奏に自信がなければ、人前で弾くのは恥ずかしいのかもしれない。

 だが。

「やっぱり、だれかの前で思いっきり弾くのは、楽しいですか?」
「!」
「やっぱり音楽は人に聴かせてこそ音楽ですよね。聞かれてこそ音楽になる。何せ、音楽というのは音を楽しむものなんですもの。私のように、二通りの『楽しみ方』があるのは稀ですから」

 ね、と。見透かしたかのように、春宮が笑う。

 ――そうだ。その通りだ。聞いてもらわなければならないのだ。聞いてもらうために弾くのだ。俺の音を聞けと、より良い音を聞いてくれと、心が叫ぶ。 強烈な自意識。

 根っこのところから、俺はピアノ弾きだ。
 その認識から、逃げていたのだ。四年間、ずっと。

「……そうだな」
「!」
「楽しかったと思う」
「じゃあ、ピアノはまた……」

 始めるんですか、と問われる。
 少しの間を置いてから――頷いた。「ああ。ピアノをやめるのは、やめだ」
 わあ、と怜音と春宮が両隣で声を上げる。加えて同時に両側から肩を叩いたり背中を叩いたりしてくるので、「やめろ」と一喝して引き剥がす。

「でも残念だな、美涼ちゃん。美涼ちゃんのためだけの音になるかもしれなかったのにさ。またピアニスト目指してコンクールなんかに出始めたら、多くの人がこいつのピアノを聞いちゃうもんね」
「ふふん。まあそれはちょっぴり惜しい気もしますが、いいんです。どのような形でも彼が弾くなら創作意欲もドバドバですからね。私の絵でも北条くんの音を皆に伝えるんです。気合いが入ります」
「ワー、推し作品を二次創作で布教するオタクみたいな意見」
「あながち間違いではないですね」

「……おい」俺を間に挟んで好き勝手言い合う春宮と怜音に思わず口を挟んだ。「俺は別にピアニストになる気はないぞ」

「「え⁉」」
「重ねるな声を」

 え、ではない。そもそも俺は一言もまたステージに立つとは言っていない。
 そも、自分から降りた舞台にもう一度上がろうなんて、厚顔だろう。
 重圧から手前勝手に逃げ出して、挙句、母と父は離婚した。妹が俺の代わりになった。……父は俺に何があっても『宝生楽斗』のまま何も変わらなかったが、それでも、俺のせいで失われたものはたくさんある。だから俺は別に、もう一度ピアニストになりたいとは望まない。

 しかし、そうだとしても。
ピアノを弾く。聞いてもらう。春宮の言う通り、音楽は、誰かに聴いてもらってこそ音楽だ。
 好きなことを好きだと認めるには勇気がいる。一度嫌いだと偽ったものであれば尚更だ。複雑な思いも拭えない。

「――あの『幻想』の絵が、俺にピアノを弾かせた。そういう意味じゃ、お前だって俺のミューズだ」

だが、だからといって逃げるのはもうやめだ。
 人の心に響く以上に、演奏家冥利に尽きることはないものだ。


「弾いてやるよ、お前のために」


 だからこそ――春宮美涼の絵があれば、俺はゼロからもう一度ピアノを好きになれるような、そんな気がした。