――演奏を終え、周囲から拍手を浴び。

ぼうっとしているうちにアンコールコールがどこからともなく上がり始めたので、大事になる前に慌てて逃げ出してきた俺を出迎えたのは――ふんふんと鼻息を荒くする春宮と、にやにや笑った怜音だった。 

 軽く昼を食べるべく、駅構内にあるファストフード店に三人で入る。たまたま空いていた窓際のカウンター席からは、先程弾いたばかりのアップライトピアノが見える。ピアノには入れ替わり立ち替わり人が近づいたが、軽く触れる程度で、一曲弾いてみせる者はいなかった。

「とっっっても、素晴らしかったです」
「……大袈裟なんだよ反応が」 

少なくとも小鼻をふくらませる今の春宮の様相は、間違っても学校の者が考えているような『天才美少女』のそれではない。眉根を寄せ、「落ち着け」と言って肩を叩くが、しかし春宮は、鼻息を荒くさせたままかぶりを振った。

「大袈裟なんかじゃありません。本当ですよ。最初の一音目から、色の凄まじさも音楽としてのレベルもすごかったです」
「……そりゃドーモ」
「ピアノドッキリのヨウチューバー扱いは草。でもたしかにそんな感じではあったよな」

 予想をいい意味で裏切る爽快感。たしかに、そういう類の快感を感じなかったと言えば嘘になる。

「それに私はこの……『革命』が作曲された背景はあまり知らないのですが、拭い切れない痛みがあるように思えました」
「この曲に?」
「はい。それと、君の演奏に。そんな感じがしました……間違っているかもしれませんが」
いいや、と首を振った。

 こういうのに受け手側が『間違っている』ということはあまりない。弾き手の方には、楽譜という指示書がある以上、ある程度の解釈の『正解』を求められる。ただ、聞き手の方がどんな曲をどんな風に聞こうと自由だ。不正解は存在しない。

 ――実際に、ショパンはこの曲に怒りを込めたろう。俺も怒りを込めて鍵盤を叩いた。向ける方向が定かではない、それでも確かに感じているやるせなさを。

「俺も、今の『革命』すごいよかったと思うよ」
「怜音」
「やっぱりさ、俺、昔からお前の弾くピアノ、好きなんだよなあ。思いっきり魂削って弾いてる感じするじゃん。だから……お前がもっかいピアノ弾くっていうのがそもそも嬉しい、んだよね。俺はさ」
「……お前」

怜音がは照れを誤魔化すためか、飄々とした笑みを浮かべてみせる。

 喧嘩の時でも一向に手を使わない。……そのことを何度もからかわれたが、その意図はやはり、俺のピアノに対する本心を確かめるだったのかもしれない。
 生まれつき目つきが悪く、素行も服装も真っ当とは言えない俺は、腐り始めた頃からずっと意味不明な絡まれ方をされてきた。喧嘩を売られた時は応戦したが、手を使って殴る気にはなれなかった。……俺はそれをずっと、手を守る癖のせいだと自分に言い聞かせていたけれども。

「……でもさ、早くピアノ弾くの、また始めりゃいいのになんて思ってたけど、本当にピアノ弾くの嫌いになったんじゃないかって心配ではあったんだよ。
 俺はお前がガキの頃から死にものぐるいで練習してきたのを見てるからさ。それなのに、一度はその時間を全部捨てようとしたんだろ? だから、ピアノに未練残してるっていう自分の勘が間違っている気もしてた。……でも杞憂でよかったよ。だって、」

 ――お前、楽しそうだったもんな。ピアノ弾いてる時。

 悪戯っぽく、意地悪げに、怜音が口の端を吊り上げてそう言った。

「……うるせぇよ」
「お? よーやく少しは素直になったな」

 にやつく怜音に、舌打ちを返す。……これでも付き合いが長いのだ。下手に隠しても無意味であるということはなんとなくわかっている。

 それにしても、と怜音は春宮を見た。

「今まで美涼ちゃんのこと、ちょ~かわいい子だな~とは思ってたけど。怜音をもう一回ピアノに向かわせた絵も、なんかどんなものか気になってきちゃったな。絵なんてあんまり興味もなかったし、今までちゃんと見たこともなかったけど……今度見せてよ。美涼ちゃん」
「私の顔に興味はあったけど絵には興味なかったという態度、いっそ清々しいですね……。というか、私の絵が北条くんをピアノに向かわせたのではありません。北条くんのピアノが私に絵を描かせたんだと、ずっとそう言っているではありませんか」
「……いや」
「え?」

「あながち、間違いじゃないかもしれない」

 あの森の絵を見た時に、心の奥の何かが変わったような気がする。
 音楽も美術も、芸術とラベリングされるものには、走っても走っても明確なゴールはない。才能の追いかけっこだなんて不毛でしかない、いずれ出てくる『天才』で代替可能なら、その世界に身を置くのは自分でなくてもいいだろうがと思っていた。思うようにしていた。

 だが、俺は、期待も評価も失望も競争も関係なく、作品それ自体の価値と裡の魂を、あの森の絵を見た時感じたのだ。――あの時、あの瞬間。締め付けるような胸の痛みとともに。

「お前のあの『幻想』が、俺にもう一度『幻想即興曲』を弾かせた」

 かつての俺の音を見て、その絵を描いたと知った時、掻き立てられた思いはなんだっただろう。
 喜びか。昔を思い出させる鬱陶しさか。――否。あの絵に感動したと理解した時、『自分の昔の演奏』に価値を見出されたとわかった時、
 確かに感じたのは、対抗心だった。

(今の俺の音を聞けよ、なんて)

 ブランクがある今の俺が、昔の俺の演奏を凌ぐことなど、できるわけがなかったというのに。

(……ああ、そうだ)

 俺は。


「――負けず嫌いのくせに負けるのが怖くて逃げ出したんだよ。父に、周りに真の意味で見捨てられるのが怖かったから、自分から捨ててやろうと思ったんだ」


 焦燥に駆られてピアノを弾き、父の思う通りの演奏機械になる将来にも嫌気が差していた。だが、やはり俺は、ステージやコンクールという――他の才能たちとの競争の場で、敗北を突きつけられるのが怖かった。心の底から自分に失望し、ピアノを嫌いになる気がしたから。
 自分から捨てれば、心は守れる。
 敗北して逃げたのではないと思える。

(俺は、『特別な人間』のままで、『天才』のままでいたかった。いずれ追い抜かれることをわかっていたから)

 ――なるほど、弱い。
 父の言葉は正しかった。これで、この先、やっていけたはずがない。
 すると。

「……それってつまり」しばらく黙って聞いていた怜音が、なぜかやたら引いたような顔をしてこちらを見た。「今までずっと一番だったから、一番じゃなくなるのが嫌で、それならコンクールやらなんやらで誰かに負けるより先にやめてやれって思ったってこと……?」
「まとめ方に悪意がある」

 それだと凄まじくプライドが高いくせに器が小さいやつみたいだろうが。

「いやだってそういうことじゃん。そう言ってたじゃん」
「やめろ語弊だ」
「――でも」

 口を挟んだ春宮を、怜音と共に振り返る。

「それが北条くんのアイデンティティだったのかもしれませんね。宝生楽斗という偉大な人物の息子として、特別な人間であることそのものが」