(弱い。……確かにそうかもしれない)

 ピアノを弾くことにおいて、特定の誰かと競うことはあまりなかった。出たコンクールで誰かと競って負けたことは一度もなかった。ライバルと言える存在はいなかった。

……が、自分が漫画やら小説やらに出てくるような規格外の天才ではないことはわかっていた。才能があっても、あくまでいつ埋没してもおかしくない程度のものだ。

焦りがあった。今、同年代よりも自分が上手く弾けているのは、ただ自分が人よりわずかに早熟なだけだ、ということを、俺は本能で知っていた。
勝つのは楽しい。完璧な演奏をする快感も得難いものだ。しかし、だからこそ――これから出てて来るかもしれない圧倒的な才能が恐ろしかったのかもしれない。

優勝したコンクールでも、父は俺を叱責した。ならば、誰かに完璧に敗北し、自分を上回る結果を出されたた時、どうなってしまうのか。
自分よりもうまく弾かれることが、恐ろしい。
そんなことを考える自分が一番恐ろしいと思った。素晴らしいピアノを、素直に好きだと思えなくなる未来が来る予感がした。

 先程怜音は響の――俺たちより一つ年下の妹の演奏の方が、今『月光』を弾いていた少女の演奏よりも優れていると言った。そうだ。妹には恐らく、俺よりも才能があった。父が俺を妹より気にかけていたのは、俺の方が早く生まれたぶん早く結果を残していたからだ。

いずれ妹を脅威に感じるようになると言う予感。それも、俺にとっては恐ろしいことだった。

――宝生奏介という奏者はただの凡人に過ぎなかったのだ、と。

父に、そして俺のピアノを聴く人々に、そう評されるよりも先に――ピアノを捨てたかったのかもしれない。
父は自分の求める音しか許さなかった。しかし、


(俺はずっと、俺の音を弾きたかった――!)


 そして、低く強い打鍵での最後の和音。
悲壮感に満ちた余韻を残して、ゆっくりと鍵盤から手を離す。

――刹那。地鳴りのような拍手が鳴り響いた。

否、地鳴りのような、はさすがに過ぎた言葉かもしれない。しかし、右を見ても左を見ても、確かに周りの人々はこちらを見て目を輝かせ、手を叩いていた。

呆然とする。
認められているのか、今の演奏が。最後の方は左腕の疲労で、ろくな音が出せていなかったのに。


「すごい! びっくりしました」
「めちゃくちゃヤバかった~! 腕、鳥肌立ってる」
「なんだろ? あれかな、ヨウチューバ―とかのストリートピアノドッキリ的な。不良っぽいいかにもピアノ弾けなさそうなやつがピアノ弾くけど、実はプロで観客の度肝抜くってやつ」
「有り得そ~」
「え? でもあの子中学生くらいでしょ。さすがにプロはなくね?」


 はあ、はあ、といつの間にか荒くなっていた呼吸を整えながら、俺は春宮たちの姿を探す。
どよめく観客の奥、春宮と怜音は満面の笑顔でこちらに手を振っていた。

(ああ、くそ……)

 楽しかった頃の記憶を、思い出す。
スポットライトを浴びて注目されながら、張り詰めたような緊張感の中で、それでも鍵盤を叩く喜びを感じていた頃のことを。満足のいく演奏を終え、名残惜しい気持ちで立ち上がった時に浴びせられた拍手と、きらきらと輝く瞳を向けられた時の高揚感と爽快感。

認めたくなかった。認めてはいけないと、無意識に自分に言い聞かせていた。春宮の絵を見て、『幻想即興曲』を弾いた――あの絵に弾かされた、あの時から。


(やっぱ、楽しいな……)

 
かつて捨てたはずのものが。色褪せていった自分の中の音が。
 確かに蘇る感覚がした。