蹴り上げた爪先が目の前の男の鳩尾に沈み込む感触が、直截に足全体に伝わる。目を見開き、身体をくの字に折り曲げながら転がる男の金髪が揺れる。
どう、と前倒しに地面に伏した男を見下ろしながら、俺は足を下ろした。


「――汚ねぇな」


盛大に唾飛ばしやがって、と顔を歪める。スラックスに付着したのをこの目で見た。この上なく不愉快だ。

ふと背後から、「それさあ」と能天気な声がした。「唾でなくて胃液じゃないの」
ブレザータイプの制服を着崩した茶髪の男がひょこりと顔を覗かせ、にこりと笑う。
思わずゲ、と目を細めた。――相変わらず、胡散臭い笑顔だ。

「……見てたのかよ、伶音」
「まーね。いやあ派手にやったなあ。一瞬でのしちゃったけど。高校生だろ、こいつら」

体格が上のやつ相手によくやるよ、と、言う。

「でも、やりすぎじゃない? ことごとく気絶してるように見えるんだけど」
「喧嘩売ってきたのはアッチだ。ンで俺が加害者側の馬鹿どもを気にしなきゃなんねぇんだよ」

怪我したくねぇなら喧嘩なんて売ってこなきゃいいんだ。馬鹿らしい。

吐き捨て、地面に投げ捨ててあったリュックを背負い直すと、伶音は肩を竦めて「それもそっか」と口の端を吊り上げた。


――鳴葉市の一角にある、団地の立ち並ぶ住宅街。人気のない公園と団地の狭間に、制服を着崩した茶髪や金髪の男が五人ほど、折り重なるようにして倒れていた。
「でもお前さあ、こんな時間に遊んでていいわけ」
「……は? あっクソ」

陽は沈み、空では藍色が赤を追い出している。空気は徐々に重たく静かになっていき、遠くに聳える山の傍には金星が瞬く。
絡んできたアホどもを伸した直後にそのまま帰宅する気になれず、悪友と二人ふらふらと町を歩いていて入った、やや古い馴染みのゲームセンター。

突然の言葉にクレーンゲームのレバーを持つ手を思わず離せば、アームが掴んでいた箱菓子がぼとりと落ちた。あ、と声が漏れる。――ただ、見事こちらの集中を乱してみせた当の伶音は、「てめえ」と睨んでもどこ吹く風とばかりに飄々としていた。

「ほら、俺の親は放任主義だから、俺がこうやって遅くまで遊んでても何も言わないけどさあ。お前んとこは違うじゃん?」

――ここ、治安悪いし。おばさん心配するよ。伶音が薄く笑んだまま言う。

それは確かにそうだった。
夕方になればここらの街は騒がしく、決して真面目とは言えない学生たちが溜まり場にする。不良の吹き溜まりとして、中学でも注意喚起がなされていた。
が。

「……今さらか? 学校のいう不良ってのには、俺たちのこともバッチリ入ってんだろうが」
「そりゃそうなんだけどさ」

 特に不良を名乗ったことはないが、事実としてそういう認識はされているだろう。
 喧嘩、サボり、遅刻、早退、補導。そして喧嘩。犯罪に手を出した覚えはないが条例違反くらいならしているだろう。興味はないけれども。

 ガタン。クレーンのアームが落としたぬいぐるみを、伶音が足元の受け取り口から拾う。
 見れば、女児に人気のクマのキャラクターのぬいぐるみだった。間抜けな顔立ちとフォルムだが、妙な愛らしさがある。
特に悪人という訳ではないが、染髪にサボり、十分に不良学生といえる伶音が取るものにしては、随分と可愛らしい。少し意外で、お前可愛いものとか好きだったんだな、と俺が言うと、また伶音はうっすらと笑った。

「お前は、好きで不良学生やってんじゃないでしょ」
「……あ?」
「俺は授業も協調もかったるい。遊び歩くのも好きだし、悪いことをしたいわけじゃあないけどワルイコトはしたい。煙草は不味かったけど酒はうまい。不真面目上等。教師も好きじゃない。毎日毎日決められた時間に投稿して決められた勉強をする、吐き気がするね」

でもお前は違う。
伶音は俺にバカでかいぬいぐるみを押し付けると、薄ら笑いを消した。

「お前、本来、真面目じゃん。酒も煙草もやらない。周りに色々言われてるのに学校も行く。……だからさあ、もうこんなとこでグズグズしてんの、やめたら」
「……真面目に学校行けって? 昼間っからサボったり遊んだり喧嘩買ってんじゃねえよって?」
「そーゆーこと言ってんじゃないよ。わかってんだろ」

 ほら、と言って、伶音が俺のスラックスのポケットを軽く叩いた。――クレーンゲームで遊ぶのをやめてから、ポケットに入れたままの俺の手を。

「――なあ、奏介。お前、喧嘩する時、頑なに手ェ使わないよなあ?」

それはまるで、勿論その理由はわかってるけどね――とでも言わんばかりの顔だった。
耐え難い不愉快さが喉元までせり上がり、弾かれるようにして伶音を睨みつける。口を開けば、予想以上に低い声が出た。

「何、ヒトのこと分かった気になって口開いてんだお前。ただの癖だって何度言えばわかる?」

 怜音は答える代わりに目を細めると、先程こちらに押し付けたぬいぐるみを指差した。「そのキャラ、響ちゃんが好きだったろ」

 今度会った時あげといて、と言って、踵を返した。おい、と呼び止めるも、伶音はこちらを振り返ることなく歩いていく。
 
 響。――妹の名だった。両親が離婚し、出て行った父親についていった妹。

「……もう会うこともねぇよ」

馬鹿らしい。
もうこんなとこでグズグズしてんの、やめたら、だって?
グズグズも何もない。俺にはもう何もない。全てあの日に置いてきたのだ。


「――ピアニスト目指してた宝生奏介は、もう死んだんだよ」


徹底的に踏み躙ったのだ、この俺が、俺自身で。俺自身の歩んできた道を、跡形もなく。
芸術なんて、突き詰めるだけ馬鹿げている。