「あ、ピアノに誰か向かったよ」

 怜音の指摘にはっと顔を上げれば、確かに中学生から高校生くらいの制服の少女が、安置されたアップライトピアノの前に座ったところだった。駅ピアノはフロアの端にあるとはいえ、そこそこ大きな中央改札から見える場所にある。道行く人々がちらちらピアノと少女を見比べながら、足を止めるかどうか迷っている様子を見せている。

「……でも俺はさあ」

 不意に。ピアノの椅子をセットし直している少女の姿をぼんやりと見ながら、怜音が呟いた。

「まさかお前が本当に、また誰かの前でピアノを弾いたなんてって驚いたよ。あんなに頑なだったってのに、俺だって煽ってみたりしたのにさ。どういう心境の変化?」
「俺がアイツの前でピアノ弾く羽目になった理由は今説明したろうが」
「あー。昔のお前が美涼ちゃんに絵を描かせたから、今の自分は昔とは違うって示すためだとかいう話ね」
「……なんだよ」
「いーや別に。……俺もさ、お前がまたピアノ弾くかもってのが嬉しいんだよね。俺にも、お前はまだピアノに未練残してるように見えたから」

 蹴りばっか使って喧嘩してるから、ものすごい蹴りだって巷で話題になってるくらいだし、と、茶化すような口調で怜音が言う。

 何か言い返してやろうとしたその時、ピアノの前に座った少女が、鍵盤に指を置いた。
一呼吸置いて始まった曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番。表題は、『月光』。その第一楽章だ。全体的にゆったりとした曲調ではあるが、だからこそ弾き手の力量が顕著に表れる。ただ楽譜を追って弾くだけならば、小学生にだってできる。
 序奏に続いて、演奏はすぐに有名な主題に入る。『月光』第一楽章で頻出する「ソ#ド#ミ」の音型が三連符のかたちをとって反復するフレーズは、非常に落ち着いていて神秘的――そして抒情的だ。

「……ふーん」

 演奏が始まってすぐ、さして興味もなさそうな呟きを漏らしたのは、左隣の怜音だった。冷めた目をして少女の背中を見つめている怜音と同様、右隣の春宮も表情を一切変えていない。

「上手いね」
「そうだな」

 だがそれだけだ。そう思った。
  きっと怜音も同じことを思っていただろう。音符を正確に追い、テンポを守り、ペダルもいいタイミングで踏めば、誰が弾いてもそこそこのかたちになって聞こえる。彼女のピアノは上手だ――しかし、胸に迫るような抒情性がない。

 月光、という表題は作者であるベートーヴェンがつけたものではなく、詩人であり音楽評論家でもあったルートヴィヒ・レルシュタープが十四番を聞いた時に「スイスのルツェルン湖の上の小舟が、月光の波に揺らいでいるようだ」と称したことから呼ばれ始めた名なのだという。あくまでレルシュタープの思い描いた景色であって、この曲に月を見出すのは必ずしも正解というわけではないが、表題から弾き手が共通して思い描くイメージは確かにあるものだ。

 しかしこの演奏は、単調だった。一条の月の光が見えることも、夜の湖の静けさを感じることもない。

(……って何、批評家ぶって分析してんだよ、俺は)

 急に自分が恥ずかしくなり、軽く舌を打つ。弾き終えた少女は周りの笑顔と拍手を浴びながら、近くにいた、同じ制服の少女たちのところへ小走りに駆けていく。

「んー、まあまあよかったかな。美涼ちゃんはどう思う?」
「さあ、まあ、いいんじゃないでしょうか。少なくとも、別に不愉快ではありませんでしたよ。テンポも速くはないし、音が異常に混ざり合って酔ったりしませんもの。……ただ、三つの音ばっかり繰り返されるものですから、少々色を見飽きた感はありますが」
「ア、そっちの感想なのね。でも共感覚かあ、どんなんなのかちょっと気になるかなあ……」
「……共感覚(こんなもの)、別に持っていていいことばかりではありませんよ」
「そう?」

 ええ、と春宮が珍しく素っ気なく頷いた。――春宮美涼という女が、変人ではあっても冷淡というわけではないということを即日掴んだ怜音は何度か怪訝そうに眼を瞬かせたが、「ふうん、まあそうかあ」と言うだけで、それ以上深入りしようとはしなかった。

「……というかお前ら何偉そうに寸評してンだ。上から目線すぎるだろ」
「そりゃあ奏介クン、わりと俺は耳が肥えてるので? 小学校は違っても住んでるところ近かったし昔は宝生家でもよく遊んだしお前のピアノも響ちゃんのピアノも聴いてたわけだし?」
「なんですかそれ、ずるいです雪村くん」
「とまあそんなわけで、俺は多少の相対音感は持ち合わせてしまってるわけだし? 今のピアノだって、お前や響ちゃんの方が全然うまいことくらいわかるんだよね」
「……くだらねぇ」
「照れ隠しかな?」
「……」

 ほら似ている。人を的確に煽るところが春宮と怜音でそっくりだ。前者は天然、後者は故意という違いがあるもののそっくりだ。絶妙に腹立たしい。

「あ、ほら。ピアノ、空きましたよ。並んでいる人もいませんし、行ってきてください」
「この期に及んでやめたとかはなしだからな。ほら、俺らはちょっと離れたところで聴いてるからさ」
「ああもう、わかったよ……」

 やればいいんだろうが。深く息を吐き出し、半ば自棄になってピアノへと突き進んでいく。
 大して尖った服装をしたつもりはないが、肩を怒らせるようにしてずかずか歩いていくと、海割りさながらに先程の演奏で集まっていた人垣が割れた。

 どかりと椅子に座れば、ピアノの周りにいた数人がぎょっとした顔をした。そして僅かながらも眉を顰め、なんだこいつは、という視線を向けてくる。――こいつが今から弾くのか。とてもピアノを弾けそうな顔には見えないけど。不良っぽいよね。うわ、目つき悪。きっと罰ゲームか何かでしょう? 自由に弾けるピアノだから別にいいけど、騒音だけはやめてほしいよね。ここだって公共の場なんだからさ――。

 感覚が研ぎ澄まされ、そのせいで周りの声が届く。……まるであの時のようだった。ステージに上り、聞いた観客のさざめき。重苦しい期待と父からの圧、演奏ののちに与えられるかもしれない失望を思って、吐き気を覚えたあの日。
 ――他のコンテスタントが俺を見ていた。何が何でも超えてやるという目。失敗を願う目。全員が何かしらの勝手な理想を押し付けて、レッテルを通して自分を見ている不快感。

(……ああ、いや)

 そう、ではないのか。今は。
 こいつらはみんな俺に期待はしていない。早く椅子から降りてほしいと思っている。あるいは、別に弾いてもいいけど迷惑はかけないでほしいと思っているだけで、無関心。

 まだ近くにいたらしい、先程の演奏者の少女がこちらを見ていた。他の周囲の人間のように寄った眉根は、おふざけならやめてくれないかと言っているようだった。宝生奏介の顔も、何も知らない人間の顔だった。

 ――なら、いいか。ふと、そう思った。

 そもそも、もう周りの目を気にする必要も評価を気にする必要もないのだ。好きにやればいい。これが最後だ。それならば。
 右手を持ち上げる。左手は鍵盤に置かず、膝の上に置いたまま。


(ずっと耳の奥で響いてるご立派なこの音を、いっそ下手くそな音で掻き消してやるよ)


 ――怒りを!