「へー! こんなとこにピアノなんてあったんだなあ」
「なんでお前までついてきてる……」

 空が青々しくすがすがしいのに対し、心はげんなりと重々しく苦々しい。別にいいじゃあんと間延びした声で応えた怜音に、こめかみが引き攣る。

 ――日曜日。
 俺と春宮、そして怜音は、鳴葉市民のほとんどにとっての最寄り駅であるとされる鳴葉駅から、急行で四駅ほどいったところに来ていた。県内ではあるものの、駅前の施設といい造りといい、ここは鳴葉よりも街並みが数段都会的だ。

「まあまあ」水色のワンピースで軽くめかしこんだ春宮が浮かれた調子で雑にとりなす。「いいではありませんか。彼も北条くんがピアノを弾けることを知る数少ない方なんでしょう? せっかくだから味方になってもらいましょうよ」
「勝手なこと言いやがって……これで最後だぞ」

 吐き捨て、顔を背ける俺に、春宮は目を細める。「……それはどうでしょうかねえ」
 まだわかりませんよ、と。そうつけ加えた彼女の視線の先には、

 今回の目的地である――『FREE PLAY』という看板が傍に立てかけられた、駅ピアノがあった。


  




 ――さて時間は、放課後に呼び出されたあの日まで遡る。
 ドヤ顔で「ストリートピアノですよ」と宣った春宮を前に、俺は強烈なデジャヴを覚えていた。「…………嫌だが?」

「え⁉」
 
 ほら来た。

「なんでですか⁉」 
「そもそももう関わるなって言ったろ。話がそれだけなら答えは却下。以上だ」

 まるで一日前を繰り返しているかのようだ……。頭痛がしてきて眉間を押さえると、春宮がもう一度「なんでですか⁉」と繰り返した。話を聞いてくれ。

「そこは『試してみる』でいいでしょう! 面倒くさい人ですね!」
「は⁉」
「あッつい本音が……い、いえでも、そうでしょう! 謝りませんよ⁉ 今の私には、君がただうじうじしているだけにしか見えませんもの!」
「お前……言わせておけば……」
「嫌いなら嫌いでいいんです」遮るようにして、春宮は続けた。
「好きなことだって嫌いになることはありますよ、人間なんですから。でも、好きなものを嫌いだって自分に嘘をついたままなのは違うでしょう。……聞きましたよ、君の噂。界隈では有名だそうですが、君は喧嘩をする時も絶対に手は使わないそうですね。喧嘩を自分から売ることはなく、強烈な蹴りで相手を沈める。それだけじゃありませんよ。普段から君はスラックスのポケットに手を突っ込んでいますよね。そのせいで先生に怒られることもあるとか。
北条くん。手を使おうとしないのは、いつもポケットに手を入れているのは、指を痛めることを避けるためなんじゃないんですか」

 ――なあ、奏介。お前、喧嘩する時、頑なに手ェ使わないよなあ? 
 そう言って笑った怜音のセリフが脳内に蘇り、その姿が目の前の春宮に重なる。
 どいつも、こいつも。

「関係、ないだろ。俺がピアノを好きだろうが嫌いだろうが、お前には!」
「――関係ないわけないじゃないですか!」

 声を荒げた俺に、しかし、春宮はそれ以上の剣幕で応えた。

「君は私の神様で――いいえ、もっともっと簡単に言うならば。私は君のピアノのファンなんですから。」
「な……!」
「だから、ファンのエゴでも自分勝手でも、もうこの際いいです。好きなように思ってもらっていいです。でも、君の本心を確かめることだけは絶対にしてもらいます。それで嫌ならもういいんです。諦めます。もう関わりません」

 でも、確かめることすらしないと言うのだったら、と。
 突然、春宮の目が昏く据わった。


「――君がピアノの天才だったこと、尾びれ背びれエラついでに足までつけて、学校全体に噂を流してやりますからね」








「くそ、人の足元見やがって……」
「私の前でピアノを弾いてみせてしまったことが運の尽きでしたね!」
「美涼ちゃんそれ自分で言っちゃうんだ……」

 胸を張る春宮に、怜音が面白そうに、そしてどこか苦笑するようにして言った。
しかし、運の尽きということもあながち間違ってはいないような気もした。実際に、あそこで『幻想即興曲』なんて弾かずに音楽室をあとにしていれば、今まで通りでいられたのに。

(今まで通り……)

 ふと疑問が沸いた。――『今まで通り』とは何だろう。
今まで通り、『普通』にもなれず、不良とラベリングされたまま、大して楽しくもないサボりと遊びをすることだろうか。将来の話や夢だなんてものは思考回路から一切合切排除して、ただ流されるまま楽なまま生きることか。

そうか、と気づく。俺はこれまで生きてきて、将来ことを考えたことなど、ほとんどなかったのだ。小五、あのピアノを捨てたコンクールの日からは頭から追い出し。見ない振りをしてきた。そして、『幻想即興曲』を弾き、全国出場が決まった時も、否、家でグランドピアノに向かっている時もずっと。

――俺はずっと、ピアニストになりたかったから。