――西陽の差し込む廊下を二人で歩く。やや前方を歩く春宮の黒髪が足を踏み出すごとに揺れ、陽を浴びて橙に艷めいている。

空は既に天球一面が赤い。陽が傾く時間まで学校に残っていたのは、ひどく久しぶりのことだった。

「……お前、あの絵を俺に見せて、何がしたかったんだよ」
「特には何も?」
「は?」
「私のミューズに、私の作品を見てもらいたかっただけです」
「だから勝手に人を自分の女神にするな」
「……仕方がないじゃないですか」

不意に立ち止まった春宮が、身体ごとこちらを振り返り、俺に向かって立った。

「もう決めちゃったんですもの。いいえ、決めさせられてしまったんですもの。――四年前、君のピアノを聴いてから、君は私の神様なんです。たとえ君が二度とピアノを弾かなくても、私の記憶が色褪せて描けなくなっても、その事実は変わりません」
「……どうしてそんなに真っ直ぐ在れる」

意味がわからない。

「どうしてそんなに揺らがないんだよ」

意味がわからないからこそ、ひどく息苦しい。

「たった一度だ。たった一度の演奏だぞ。それだけで、何年も絵を描くことに時間を使ったのか? 正気の沙汰じゃない」

「おかしくありませんよ。
何かが変わるのって、諸々が積み重なった末のこともあれば、たった一度の何かのせいのこともあるでしょう。私は君のピアノを聴いて、それを絵に残すことを自分で選んだんです。絵を描くことだけが、私の視る世界を他人に伝える手段で――そして、他人に見せたい、広げたいと感じた私の『魂』は、君のピアノだった」

それに君思うほど私は揺らがない訳ではない――春宮はそうつけ加える。

「私の描きたいものなんて、あやふやな記憶に頼らなきゃないものなんですから。不安にはなるし挫けそうにはなるし、記憶を捻り出すためになんとか描いた絵が意味もわからず金賞に選ばれるし、褒められても複雑だし何も思い出せないし他にも――」
「もういい。……でも、お前はやめなかっただろ、絵を描くのを」

 いつかのステージ。淡いスポット。象牙色の鍵盤。
 呆気にとられた観客の前から去っていく時の、……あの重苦しい腹の底。

「お前の絵の才能は……『本物』だと俺は思う。俺のピアノに囚われていないで自分の絵を描いたらいい。ピアノだって、俺が唯一だというのは幻想かもしれない。この世にどれだけのピアニストがいると思ってんだよ」
「もしもだとかたらればだとか、そんな無意味な仮定なんかに興味ありませんよ。私のミューズはかつての君で、そしてこれからも君しかいない」

春宮美涼は強い眼差しで明瞭に言い切った。「……それに、私が色を忘れたこれじゃもう描けないって病んでいたのを、君バッチリ見たではないですか。朝に会った不良がなんとあの宝生奏介! なんていう衝撃展開がなかったら、私は絵を描くのをスッパリやめてたと思いますよ? それくらい辛かったので」

「……辛かった?」
「いくら好きなことだって辛くなったら、続けることが難しいことだってありますよ。人間なんですから。……でも好きだからこそ、やりたいと選んだ道だからこそ、諦めなくていいのなら、諦めたくないと思い直した。それだけのことです。だからこうやって必死に君を口説いてるんですよ?」

北条くん、と。
春宮が俺の名を呼んだ。


「――もう一回聞きます。本当にピアノを嫌いになってしまったんですか?」


私は、そうではないように感じました、と。
春宮は真剣な眼差しをこちらに向けたまま、明瞭に言い切った。

「……ッ」

なんの根拠があって、と。
間を置かずに勢いよく反論しようとした。……しかし意思に反して声は喉の奥に張り付いて出なかった。
代わりに、拳を強く握り込んだ。爪が手のひらに食い込む。

「昨日、ピアノを弾いている時の君の迫力は凄かった。まるで、ピアノを弾くことに飢えているような、そんな顔をしていましたよ。君はピアノを弾くのに飢えていた。なぜか?
 ……それは、君が、本心ではピアノを愛しているからではないのですか」
「違う、俺は……」

「――じゃあ、違うのかどうか試してみましょうよ」

突然の言葉に、唖然とした。
しかし言い出した本人は、俺が硬直したのを見ても眉ひとつ動かさない。

「コンサートやコンクールのステージよりも気安で、多くの人に聞かれて、でも一人で弾くよりも緊張感がある場所へ。そこで弾いてみて本当に嫌いだと仰るなら、私も諦めます」
「……そんなところがどこにあるんだよ」

そりゃあ勿論、と春宮がにんまり笑った。初めて見る、悪巧みをするかのごとき笑み。



「――ストリートピアノですよ」