それも、両翼。
青い羽――否、青だけではない。藍、赤、緑、様々な色で作られた二つの羽。翼。まるで天使の羽だけを描いたような構図だが、天使の羽だとするには白くもないし、聖画にあるような神聖さがない。ゆえにこれは鳥の翼なのだろうが、画面に鳥の胴体は描かれていない。
……しかし、この両翼を持った鳥が画面の向こうに見えるかのようだった。この絵に描かれたものは、空に飛び立つ前の翼だ。
ぞ、と肌が粟立つ。
不快からの反応ではなかった。あの森の絵を見た時と同じような衝撃と、畏怖。
「私、アクリルよりも水彩が好きなんです。ほら、ここの学校、授業で使う画材はだいたいアクリルガッシュでしょう? でもこの絵は、ディテールにはガッシュを使ってはいるんですけど、メインは水彩なんです。自分の作品を作る時はだいたい水彩絵の具を使います。まだ油絵具には挑戦したことないので、そのうち使ってみたいんですけど」
時間があったらやってみてもいいんじゃないかしらと夏木が言った。中学生だと油画を描いたことがあるという生徒はさして多くもないが、美術の専門に進みたいと考えている生徒は覚えていて損はないという。鳴葉市近辺の美術科のある私立高校が採用している試験はたいていの場合鉛筆デッサンだが、授業では油絵をやることもあるらしい。
「それにしても、この絵。まるでアルプレヒト・デューラーの『翼のディテール』よねえ。『翼のディテール』も、水彩絵の具にガッシュ絵の具を組み合わせてディテールを描き出した傑作なのよ。でもこれはデューラーのそれよりも色鮮やかで……けれど決して華美すぎもしない。先生これ好きだわぁ。美涼ちゃんこれタイトル何にしたの」
「うふふん、『幻想・主部』ですかねえ」
「主部ってなんの主部よ」
春宮は投げかけられた問いには応えずにこりと笑うのみだったので、夏木がエ~顧問に教えてくれてもいいでしょ昨日片付け手伝わせておいて、と不満の声を上げる。
――主部。つまりは、『幻想即興曲』の主部。左手と右手のクロスリズム。
この翼の絵は、あの部分を描いた絵なのか?
あのフレーズが、彼女にはこの色鮮やかな鳥の羽に視えていたと?
思わず、やや後ろに立っている春宮を振り返る。
こちらからの視線に気づいた彼女は二度瞬きをすると、さらに口角を吊り上げてみせた。――誇らしげな笑みだった。
ご想像の通りです。……と、実際に声には出されなかったが、そう目が言っていた。
「絵は描き込めば描き込むほど情報量が増えて、より見映えがよく見えるんですけど、急いで描いたので細部は詰められてないんです。……でも、気に入ってはいるんです。ほら、ここ。この羽毛の感じはですねえ、紙にスポンジで水を引いて、その上に柔らかい色を乗せて、絵の具を乾くのを待ってから重ね塗りして質感を出してるんですよ。細い毛の部分はもちろん乾いてから、細かく描き込んで……、」
「春宮」
――朝の音楽室。
何かに突き動かれるようにして鍵盤に向かったあの時を思い出す。
北条奏介の演奏を聞いて絵を描いたという春宮の話を聞き、その彼女を押しのけるようにして椅子に座った時の――鍵盤に触れた時の、えも言われぬ高揚感と期待感を。
「お前、アレが、こんな風に見えてたのか。この……翼みたいに」
春宮は苦笑のような微笑のような笑みを浮かべた。
「……そのまま翼には見えてはいませんよ。私の感覚はそんな便利なものじゃないので。でも、あの色を表現するとしたら、この形にしたかったんです。これしかないと思ったんです」
モチーフの選択は自分で。春宮は音に感じた色を、自分の力で絵という形にしている。
彼女は共感覚と自分の感性で、俺のピアノに鳥の翼を見たのだろうか。飛び立つ前の翼。空に行こうとする鳥の姿を。
春宮美鈴の描いたこの絵が、演奏者(俺)と演奏(俺のピアノ)の本質を描き立てるものなのだとしたら。
――どうして。
「北条くん」
黙り込んだ俺の制服の裾を、春宮が軽く引いた。億劫さを抱えながら春宮に視線を向ければ、彼女は扉の方を指さした。
「外で少し話しましょう。あれを見てもらったあとに、もう一度聞きたいことがあるんです」
「……」
「さあ!」
わかった、とこちらが言う前に、強く腕を引かれる。オイ、と口先だけの制止をしてみたはいいものの、結局はされるがままに連れて行かれるしかできなかった。というよりは、抵抗する気が起きなかったとも言える。
――そこで、ふと、「待って」と呼び止める声があった。
夏木のバリトンボイス。音階はファ#、ミ。……彼の声も、春宮の目という名の脳にあっては色がついて見えるのだろうか。
「美涼ちゃん。探しものは見つかったの」
「先生?」
「この絵、コンクール金賞のよりもよほどいいわ。不完全でも、魂で描いたという感じがする。……あの時も、題材は借り物だとあなたは言ってたけど」
――愛しているのね、その『借り物』を。
春宮に向けられているはずの言葉が、刺さる。
「でなければ、描けない」
「……はい」
春宮が俺の腕をより強い力で掴んだ。そして明確に応えた。――そうですよ。
四年間ずっと、ずっと、求め続けていたものですもの、と。
「好きなものだからこそ、描けるんです」