――翌日の放課後であった。

 帰りのSHRが終わり、清掃の時間に入らんとするタイミングで突入してきたのは、なんと春宮美涼だった。クラス全体が話題の『天才美少女』の登場にどよめき、俺は掃き掃除のために運んでいた机をうっかり落としそうになった。
 落として大惨事にはならなかったものの机を持ったまま固まった俺に視線が集まる。特に前方でスマホをいじっていた怜音からの視線が突き刺さる。おいお前どういうこと? と丸く見開いた目が凝とこちらを見つめている。

「え……春宮さんだよね? 隣のクラスの。なんで? まさか北条に用事?」
「呼び出し? え? まさか……そういうこと?」

 違う。まったくもって絶対にそんなことはない。有り得ない。

白目を剥きたい気分だったがクラスの大注目を浴びたまま時の人を無視をするわけにもいかず、机を指定の場所まで運び終えるとすぐに春宮のもとへ歩いていく。そして低い声で「お前昨日の話聞いてたか?」と問うて――そして冒頭に戻る。

「もう関わるなっつったよな。それなのになんで昨日の今日で話しかけに来てんだよお前は」
「北条くん……。そんななりなのに、きちんと掃除当番やってるんですか? びっくりです」
「話を聞けよ」

 会話のペースが一切こちらに回ってこないこの感じ。無理矢理ツッコミをさせられているようななんともいえない不愉快さ。昨日から感じていたが、この感覚には覚えがある。

「なになに奏介、春宮さんと知り合いなわけ?」

 ――そうだ。デジャヴの正体はこいつだ。
 がしっと肩を組んでくる怜音がスキンシップに見せかけたヘッドロックを仕掛けてきたので、すかさず足を踏みつけてやった。「あイッテ!」と、短い悲鳴。春宮はぽかんとしている。

「あの、ええと……君は……」
「あ。ああ、俺? 俺は怜音、雪村怜音。こいつマジ偉いよね~。掃除当番やら委員会やらがある日は学校サボったりしないの! 周りに迷惑かけないためにってさ! 真面目か!」
「はあ……普通と言えば普通なのかもしれないですが、なんというか不良学生やってる理由がわからない類の生真面目さを感じますね……」
「――適当なことを抜かすな。別に真面目じゃねぇよ」

人が何も言わないのをいいことに好き勝手のたまう怜音の爪先を、上履きのかかとで念入りに踏む。あだだだァ、と品の欠片もない呻き声が上がったが黙殺した。「クラスの仕事やンなきゃ教師がうるさいからやってるだけだ」

「ツンデレさんなんですか?」
「てめえ」

 凄んでみせても春宮はただ仕方ないなあという笑みを浮かべるだけだった。
 どいつもこいつも……と苛立っていると、不意に春宮が怜音に視線を向けた。

「あの、そういえば雪村くんは北条くんのお友達なのですか?」
「あ、うん、まあトモダチちゃあトモダチ? つううか腐れ縁? 俺、こいつの幼なじみなんだよね。小学校はこいつ私立だったから一緒じゃなかったけど」
「北条くんの幼なじみ……じゃあ彼がピ」

 余計なことを言われる前にすかさず手で口を塞ぐ。「オイ……?」
もがごかと手の下でまだ何かを言おうとしている春宮を抑え込む。想像以上に小さくて柔い顔の感触に一瞬ぎょっとすると、そこで「ウワアッ」と、怜音がわざとらしく引いた声を漏らした。「北条クンが女の子に乱暴してる……イッタ⁉ 普通即脛蹴ったりする⁉」

 怜音がその場に蹲っているのを横目で見下ろしつつ、春宮から手を離した。
そして、渾身の作り笑顔を向けると、春宮が「オッ」というような表情になった。

「今時間あるよなァ? 春宮美涼」
「いいですよ。体育館裏ですか?」
「口縫い合わせるぞてめぇ」

どいつもこいつも……。






「……それで、何の用だよ」

 三年生のフロアから離れた人気のない西棟階段。踊り場の鏡に軽く寄り掛かる春宮を前に、腕を組んで問うた。「そもそも昨日まで人の名前も知らなかったお前が、どうやって俺のクラスを知った?」

「もちろん、人に聞いたんですよ。北条くんは有名人ですからね、すぐにわかりました。それに名前を知らなかったのはお互い様じゃないですか?」
「俺はお前ほどひどい記憶力はしてない」
「それこそひどい言い草ですねえ。この共感覚のせいで物を覚えるのに人より少し労力がかかるんですからしょうがないでしょう。それに、興味があったらちゃんと一度で覚えるんですよ?」

 春宮が笑う。
可憐な顔立ちに、苛烈なまでの貪欲さがうつる。それは恐らく、芸術への貪欲さだ。

「……何度も言うが、ピアノならもう弾かないって言ってるだろ。何回頼んだって同じだ」
「おや。昨日は弾いてくださったのに?」
「……あれは、もう俺のピアノなんて大して聴く価値もないものになってるんだから諦めろ、ということを手っ取り早く示すために弾いたんだ。事実腕が落ちているのはお前だってわかってただろ」
「私にとっては、あなたの奏でる音というだけで、演奏は一定の価値を持ちますが――世間一般的に、腕が落ちているというのは確かかもしれませんね」
「なら」

 俺の言葉を遮るように、春宮は「でも」とすかさず口を挟んだ。

「本題はそこじゃない」
「……はあ?」
「北条くん。北条くんはピアノを嫌いになってしまったんですか? だから演奏をやめて舞台を降りて、そのままピアノを捨ててしまったんですか?」

 今さらな問いだと思った。あれほど費やした時間をどぶに捨てるということそのものが、今の問いの答えになるだろうに。

「……嫌いになってなかったら、四年もろくに弾かないままでいたりしねぇよ」
「……本当ですか?」
「あ?」
「本当にそう思いますか」
「……当たり前だろうが」

 春宮はしばらくの間、睨むような視線をこちらに向けていた。しかしややあってからふっと視線を逸らすと、落ち着いた声で「わかりました」と言った。

「じゃあ、ちょっとついて来てください。見せたいものがあるんです」
「は? 待てよ、どこ行くつもりだよ」

それはもちろん、と彼女はくるりと半回転し、鏡に向き直った。鏡に映った顔が、に、と不敵に笑う。


「――美術室ですよ」