「……ッ」

言葉が鋭く、胸を抉った。
否、頭を殴られたかのような衝撃というべきなのかもしれない。
春宮は険しい顔でこちらを見ていた。きつく吊り上げられた眼差しは真っ直ぐこちらに向けられ、まるで俺を責めているかのようだった。

「言ったでしょう。君の音だけです。君の色だけが美しいと思った。世間的にどんなに美しいと言われる曲でも、どんなに素晴らしいと言われる演奏でも、私にはそうは思えなかった。
音階に、私だけ感じる色があるんです。たくさん音があれば意味もなく混じりあって上昇して下降して、結局は雨の日の水溜まりに浮かんだ油みたいな色になるんですよ。――でもあの日君の奏でた『幻想即興曲』だけが、私に音楽の素晴らしさを伝えてくれた。だから私は筆を取ったんです。感動と、あの日見た色を形にして残すために」

心臓が早鐘を打つ。
俺のピアノが彼女に絵を描かせたのだという高揚感が、じわじわと胸を侵食する。――やめろ。違う。喜ぶな。
俺の音が春宮美涼という天才を生んだのだ。――違う!


「私は君のピアノが好きです」


認めてもらった気になるな。
そもそも俺はピアノごとピアノに尽くした人生を捨てたのだ。舞台を降りて自分から!

「北条くん。これを」
「なんだよ……」

初めて俺の名を呼んだ春宮が手渡してきたのは、スケッチブックだった。クロッキー帳と言うのだろうか。美術の知識はさっぱりなのでよくわからない。

促されるまま開いてみれば、鉛筆で描かれた絵が目に入った。色鉛筆か何かで軽く色付けされたそれは、間違いなくあの絵のラフ画だった――緑の森と、紫の炎。
ぱらぱらとめくれば、何枚も同じようなラフ画があった。試行錯誤の跡。

「君の音を思い出しながら、いくつか描いて調整したんですよね」春宮は苦笑して言う。「これは中間部の、ゆったりした雰囲気の箇所で見た色を表した絵なんです。……今の演奏を聞いてからなら、もっと綺麗に描けたのでしょうが」

春宮がスケッチブックの表面に触れる。

「私は見たものを膨らませてこの絵にしている。この絵に胸を打たれたという人がいるなら、君の音がその人の胸を打ったと言っても過言ではありません」
「……過言だろ」
「いいえ。人が構図や色や画面に描かれたモノの形の美しさに感心するなら、それは私の『絵』の、『技術』の功績でしょう。けれど誰かの心を動かしたなら……魂を打ったなら、それは君の音によるものですよ。なぜならこの絵は、君の音を魂にしている。それとちょっぴり、私の感動を」
「魂……」

そうなのだろうか。

この絵には本当に、俺の音が――魂として宿っているのだろうか。プロでもないただの子供の北条奏介のピアノと、それを唯一と言った春宮美涼の魂が、ここに。

「北条くん。君が君の音を人に届けたくないと言うのなら、私が人に届けます。そうしたいんです。好きなものは広めたい。そうでしょう?
――だから、私のために弾いてください。まずは他の誰でもなく、私のために」

ね。

そう言った春宮は、これ以上となく美しく微笑んだ。
そろそろ初夏を迎えようとする、どこか湿って重たい空気が澄み、音楽室に昼の光が差し込む。

――あまりに眩しかった。
俺のピアノが好きだと言った彼女が。
ひたむきで真っ直ぐで、ただ純粋に美しいと思った色を奏でるために俺に誘いをかける彼女が。それを存分に振るわんとしている彼女の姿勢が、

息苦しくて、
羨ましい。

「無理なものは、無理だ」
「あ……」

顔を背け、椅子から降りた。ピアノから足早に離れ、そのまま出口に向かう。
そうだ、と四年前の、舞台を降りた俺が言う。――それで正しい。
春宮が慌てたように声を上げた。

「ま、待ってください! 君はピアノが嫌いになってしまったんですか⁉ だから……」
「もう俺に関わるなよ」

それだけ残し、俺は後ろ手で音楽室の引き戸を閉めた。そしてそのまま振り返らずに、早足で薄暗い廊下を歩いた。



  *



「こんにちは北条くん。今お時間ありますか?」
「お前昨日の話聞いてたか?」