――あんたの声に委縮するんだ。


「遅い。まったくテンポに合っていない。そもそも音が滑りすぎだ」

「上向きに音が連なっているからとただただ上向してどうする。芸がなければ品もない」

「そのフレーズはもっと歌え。単調すぎる。違う! 微妙なニュアンスを聴き取るんだ。そんなこともできないで弱音とは笑わせる」

「楽譜の指示を見ているのか? 運指が雑だ。何のために楽譜に番号が振ってあると思っている? そこに作曲者の意図があるんだ。意味も分からず好き勝手に弾くな!」

「解釈も借りものでしかないな。このまま自分の耳だけに頼りすぎるだけなら、お前はただの音源のコピー機にしかなれないぞ!」


 三歳から始めたピアノに費やした時間は計り知れない。一日五時間、七時間、八時間と、年齢を重ねるたびに練習時間が増えた。爪が割れて血が滲み、泣き、それでも挫けることは許されなかった。楽しかったピアノのレッスンが義務になったのはいつからだっただろう。

 叱責を浴びる度、底なしの海に放り込まれたように息ができずに苦しくなった。天才だ神童だと言われても、父からは厳しい眼差しばかりを向けられた。妹にも同様にだ。


「もういい。お前には失望した」


 演奏を放棄し、舞台を降りた時も、父は温度のない瞳で俺を見た。

「ピアニストがステージから逃げてどうする。演奏の上手い下手以前の問題だ」

 お前は演奏家失格だ。ピアノに触れる資格すらない。父はそう言って俺の前から去った。

 ――違う。叫ぼうとした言葉は声にならなかった。逃げたんじゃない。俺は自分からピアノを捨てたんだ。俺はただ楽しくピアノを弾きたかったんだ。他の人間の演奏に、才能に焦って、息切れしてでも走り続けなければならないなんて御免だったんだ。芸術の追求なんて苦しいだけだ。間違っている。そうだろ?


「お前は弱い」


 妹の響を連れて家を出て行く父が、最後に俺に向けて言い放った言葉が、今だに耳から離れない。父の得意なショパンのエチュード10-12『革命』が、脳の奥にこびりついているのと同じように。


「お前は自分の弱さにすら気づいておらず、認めようとも、ましてやそれを克服しようともしない。……才能だけはあると思って育ててきたが、伸びしろは皆無としか言いようがない。ピアノを『捨てる』というなら好きにしろ。代わりにお前はもう俺の息子ではない」


 ああ好きにするさ。

 俺はピアノを捨てたんだ。もう音楽の世界にも戻ることはないし、あんたの『期待』に苦しめられることもない。





「俺がお前の……ミューズ」


ミューズというのはたしか、英語で音楽を意味する『music』や美術館を意味する『museum』の由来となった、ギリシア神話と音楽と詩を司る九人の女神のことだ。そして、彼女らが芸術家にインスピレーションを与えるということから、作家や作曲家、画家やデザイナーなど芸術家の創作意欲を刺激する女性を指すこともあるとされている。

……つまりは、それになれと。そういうことか。
春宮は俺の手を取ったまま、真剣な顔で言った。

「ええ。お願いします!」

だから応えた。


「ぜッ…………てー嫌だけど」


「え!? なんでですか!?」

「え!? じゃねぇわ。普っ通に嫌だっつうの。俺はもうピアノとは関係ねぇよ」

心底驚いた表情にこっちが驚く。こいつ、さっきまでの俺の話、全く聞いていなかったんじゃないのか。
というかミューズミューズと言うが、ミューズは女神だろうが。俺は男だぞ。

「ど、どうして! なんでかは知りませんけど大勢の人前で弾くのが嫌になってしまったんでしょう⁉ なら私のためだけに弾いてくれればとりあえずはそれでいいのですが!」
「そうじゃないピアノを弾くのがもうこれっきりだってことだ! つうかなんで俺がお前のためにピアノ弾いてやんなきゃなんないんだよ、理由がねぇだろ!」
「なんでって……」

春宮がぎゅっと手に力を込めた。そして言う。

「――今のピアノは、私の『完成した』絵を見たいから、弾いてくれたんじゃないんですか⁉」

「は」なんッッつう自信だこの女。「はああ~~~??」

ついさっきまで『もう描けない』と、悄然としていた姿は幻かと思うほどの興奮具合だった。さながら水を得た魚がごとく、活力を取り戻した春宮の目は輝いている。

「私が描いてきた絵は不完全なんです。小学生の頃一度だけ聴いた宝生奏介のピアノを、必死で思い出しながら描いたものだから。……初めて聴いた時の感動と衝撃は覚えていても、どうしても視覚に残った記憶は時間とともに褪せてしまうものでしょう? 色は新鮮でないと」
「ああそう。なら今の『幻想即興曲』で記憶は更新されたな。よかったじゃねぇか、新鮮さバッチリだ」
「ええ、新鮮さはバッチリです。君はかつての腕は失われたと卑下していましたが、君の音は変わらず、素晴らしく美しかったですよ。目にも、耳にもね。あの時と同じように度肝を抜かれました。……でも、だからこそ、練習の末に完成した今の君の演奏も聴いてみたくてたまらない」
「は?」

「だって今の演奏、ミスタッチしまくりだったじゃないですか」

あっけらかんと指摘され、口許が引き攣った。

……いかにもピアノを弾いた経験なんてありませんみたいな弾き方をしていたど素人にも、当然のようにミスがバレていたらしい。数年ぶりのまともな演奏、指が回らないのは無理もないことだとわかっていても、他人に指摘されると腑に落ちないものがある。

「……わかってたのかよ」
「私は簡単な合唱曲ですら盛大に音を外しまくるくらいの音痴ですし、音感なんてものはゼロですが」
(大分説得力のある音感のなさアピールだな……)
「――私には、この目がありますので」

彼女は指で自らの目元を叩いた。

「ミスタッチが奏でる色も、この目できちんと見ていましたよ」

規則的に放たれる色のシャワーの中に、ぽつんと、違和感の残る色が出てきて見えるのだという。

「……ならお前だってわかってるだろ、俺の今脳では、昔の腕とは程遠いってこと。俺はお前の神様にはなれねぇし、なる気もねぇよ」
「あら。腕が落ちたらもう一度元通りにすればいいだけの話ではないですか。昔はあれほど天才だって言われていたんですから、大丈夫ですよ」
「……」

簡単に言ってくれる。
はァとひとつ嘆息して、「そんな気もやる気もねぇよ」と応えた。

「――俺はあの日にピアノを捨てたんだよ。結果と才能が物を言う、息苦しい世界が虚しくてな」

苦しいだけなら要らないとピアノを捨てた。
そして、そうしたことで、あの人に演奏ごと自分という人間を否定される恐怖も、競う苦しみもなくなった。
芸術には正解がない。追求したところでその先には何もない。――無意味なのだ、何もかも。

「俺が弾かなくたってすぐに他の才能が現れて、天才だの神童だの言われて。あの世界で言う『天才』なんて、どうせ代替可能な部品でしかねぇんだよ」
「そんなことないです」
「お前に何がわかるんだよ」


「少なくとも。私にとっては、君が唯一だ」