『幻想即興曲』を弾いたのは、春宮の言う通りのタイミングだった。とある大きなコンクールの県予選――そして俺が最後に人前で弾いた機会。
その後出場した全国、つまり本選では敗退。連覇がかかっているというプレッシャー、観客の眼差し、追い上げてくるライバルたちの脅威、そして父の『期待』。突然それらに耐えられなくなり、俺は本選での演奏を放棄した。演奏を始める前に舞台から降りたのだ。

――俺はその日から、ろくにピアノに触れることができなくなった。母が連れて行ってくれた病院ではストレスによる心理的な障害だと説明された。

ピアノに全く触れないだなんていう期間はさすがに一年かそこらで終わったが――その時はもう、俺はピアノを弾くつもりなんてなくなっていた。そこからはずっと何もやる気がおきず、『普通』に学生生活を送ることもできず、意味もなく内に籠もる鬱憤を晴らすように、気分も生活も素行も荒れた。母も口出ししてこない中、幼馴染みの怜音だけは、訳知り顔で荒れた俺と一緒にいた。

ピアノからは離れていた。近づくつもりもなかったはずだった。

だのに。

「宝生、奏介……君が……そんなことって」
「親が離婚して今は『北条』奏介だけどな。……信じられねぇか? まあ、そりゃそうか。春宮が聞いた四年前の演奏とは比べ物にならないほどの酷さだしな」

四年前のあの県予選。あれは俺の中では間違いなく完璧に弾き切ったと言える、会心の演奏だった。今の、ミスタッチだらけでリズムもバラバラなピアノとは程遠い。指は転び、滑り、コンクールだとしたら地区予選すら通るかわかったものではない。

「……お前の『神様』は、もうとっくに死んでたんだよ」

もう描けないと泣いていた春宮を思い出す。あの絵が、そして今までの彼女の絵が、本当にかつての俺の『幻想即興曲』から生まれたものだとするならば、申し訳なくもなる。
だが、やはり俺は、どうあってももはやかつての俺にはなれない。なる気もない。
四年前、間違いなく俺はピアノを捨てたのだ。

「……お前は自分を天才じゃないとか言ってたけど、才能がないなんてことはないだろ。そもそも俺は『幻想即興曲』に森のイメージは持ってないし、紫の炎なんて尚更だ。俺にそんなワンダーな想像力はねぇよ」

だが、確かに俺は、あの絵に衝撃を受けた。
強烈な懐かしさと痛みは、あの絵が俺の『幻想即興曲』から作られたものであると、他ならぬ俺の本能に刻んだのだ。それくらい、あの時の俺の演奏(たましい)を映した絵だった。

そんな絵をかたちにした春宮美涼は、――やはり『天才』なのだ。

「今は……あの絵に少なからず衝撃を受けたぶん特別に弾いたが、俺はやっぱりもうピアノは弾かない。だからお前はお前の絵を描けよ。森も炎も俺には見えなかったものだ。俺に見えなかったものを描き出してみせたお前にはそれができるだろうし、」

――何より、いくら追い縋ったところで、春宮美涼の『神様』はもういないのだから。
春宮は何も言わないまま俯いていた。

しかし、

「……いやです」
「は?」
「私は君のピアノの音を描くために画家を目指した。ピアノをもう弾かないって、なんですか。ならどうして今、弾いてくれたんですか」
「それは、」

鋭い指摘に、言葉に詰まった。
その通りだ。俺自身も不可解だと思った。自分に戸惑った。
自分でもわからないことを説明しろと言われても無理だ。どう答えるべきか悩んでいると、「……いいです」と、彼女が低い声で言うのが聞こえた。

「もういい。君がピアニストにならないと言うならもうそれでいい。でも……そうじゃないなら、君のピアノは、もはや皆のための演奏じゃないと言うのなら」

春宮が勢いよく顔を上げた。
潤んだ大きな瞳に、ギョッとして、
そして……手に触れられたことに気がつく。柔らかく白い手。しかし筆で出来たものか、マメのある手。


「私のために弾いてください」

「は……?」


「私のミューズになって。宝生……いいえ。北条奏介くん」