――彼の色をどうしてもどこかに留めておきたくて、私は絵を描くようになったんですから。
春宮美涼は、こちらの目を見て、真っ直ぐ言い切った。
「……でも、もう、だめですね」彼女は音もなく目を伏せた。「あの時視た音を、もう今になるとうまく思い出せないんです。記憶も褪せた……。五分強ある曲の中で、色も無数に変化します。それなのに、私が今まで切り取って絵にすることができたのは十枚足らず。記憶が失せていくと同時に、絵を描くことが徐々にできなくなっていきました」
「……」
心臓が早鐘を打っている。蟀谷にも背にも汗が滲んだが、春宮がそれに気づく様子はない。
「ぼやけた記憶では、もう、あの音を描くことはできません。今回の絵が限界だったんです」
「……春宮」
「はい?」
「そこ、どけ」
がた、と椅子を引いて席を立つ。「は?」と、目を見張った春宮が、初めて当惑顔になった。
「な、なんですか、いきなり。どけって、ここの椅子からですか?」
「そうだよ」
「意味がわからないんですが、え? なんですか? 君、まさかピアノ弾けるんですか?」
「意味がわからないのは俺もだよ」
「はい?? アッちょっと、押さないで下さいよ、セクハラで訴えますよ」
「早く」
「り、理不尽……」
――そう。意味がわからないのはこちらの方だった。
何故、自分がピアノの前に座ろうとしているのか。何故、春宮を椅子からどかそうとしてまで鍵盤に手を置こうとしているのか。――わからない。自分でも。
もうピアノは弾かないと、あの日決めたはずだった。少なくとも人に聞かせることは二度とない、と誓ったはずだった。
芸術の世界は理不尽だ。上に行けば行くほど目が眩み、奏でる高揚よりも追い越される焦燥を掻き立てられる。芸術の神は誰かに気まぐれに寵愛を与え、気まぐれに奪っていく。幼い頃からどれだけ天才だ神童だと褒めそやされようが、そんな存在はあとからあとから湧いて出てくる。天才のバーゲンセール。才能だけでも努力だけでも、上り詰めることはできない。
――だから。
ピアノに捨てられる前に、ピアノを捨てようと思ったのに。
「……まあ、別にいいのですけど。仮に君がそこそこピアノを弾けたとして、私の目に映る色が鮮やかに見えるのは結局、宝生奏介の音だけでしょうし……」
ぬくもりが残る椅子に座り、ペダルに合うように前後位置を調節する。聞いていますか、という苦言を無視し、春宮の楽譜を譜面台に並べた。
「フゥ――――、」
深く長く息を吐く。
――久しく感じていなかった高揚感が、確かにそこにあった。そうだ、昔は、弾き始めの一音までのこの緊張感が好きだった。糸が張るような緊張と、高揚。
(馬鹿らしいのは俺の方だ)
どうして、弾かないと決めたピアノの前に座っているのか。
……それは、きっと嬉しかったからだ。
初めて衝撃を受けた絵が、強烈ななつかしさと痛みを以て胸を打った他ならぬあの絵が――たとえ春宮美涼本人が気に入っていないとしても――かつての俺の演奏も人の心を打っていたという証明になっていたことが。
おもむろに、左手を持ち上げる。そして、
――第一音。嬰ハ短調第五音「ソ」のオクターブ。決然と始まりを告げる鐘の音のような、スフォルツァンド。
「え……っ」
勢いよく力強く左手が動き始めたかと思えば、間もなくデクレッシェンドで音量は落ち、ピアノに。同時に始まるのは、『幻想即興曲』内でも最も有名なパッセージだ。疾走する右手が高速で動き、左手がそれを支える。繊細で華やかでありながら儚げなフレーズ。
フォルテとなった十三小節目から二十四小節目は、右手のアクセントが特徴だ。一小節に四音、アクセントがつくため、そこを深く打鍵することを意識する。
「うそ……」
春宮が小さく呻くのが聞こえる。
――瞬間、あ、と思った。
中間部直前で音を外した。早速腕が疲れ、指が回らなくなってきたのだ。
(くそ、もうかよ……!)
いや、もう、というのは正しくないか。出だし――主部から既にかなり音が滑っていた。リズムが取れておらず、うまく鳴らなかった音もいくつかあった。
――ピアノは一日弾かなければ、感覚を取り戻すのに三日かかると言われている。
となると、小学五年からろくにピアノを弾いてこなかったことを考えれば、そこそこ指を回せていること自体がもはや幸運と言えるのかもしれない。――あるいは、小五まで費やした練習時間の賜物か。
ゆったりと歌うような中間部が終わると、再び激しいスピードを取り戻す主題に戻る。手首が固まっていてやはりどうしても音が滑り、リズムが崩れる。――落ち着け。
フォルテとピアノが交互に訪れ、音色は目まぐるしく起伏を繰り返す。
(また運指ミス……)
指が転がり、ミスタッチが多くなる。だが。……それでも最後まで弾き切る。
激しさが徐々に治まると、中間部で出てきたメロディーが左手によって奏でられる。懐かしさを歌う。思い出を辿るように、低く、響かせる。
――あと少しで終わりだ。……終わってしまうのだ、と感じた自分に驚いた。
そうだ。昔は、演奏が終わることを、名残惜しく思うことがよくあった。それは、俺が、ピアノを弾いていて、
(楽しかったからだ……)
――ピアニッシモで奏でられる、最後の和音。
十分に響かせると、俺はゆっくり鍵盤から指を離した。
(弾き切った……)
腕が痛い。久しぶりに使った筋肉が、ひどく痺れている。
「君、は……」
ぽつりと落とされた声に顔を上げると、呆然と目を見開いた春宮がこちらを見ていた。
唇と肩が小刻みに震えている。視線は揺れ、さまよい、定まらない。
「……音と、視えた色は覚えてても、顔は覚えてなかったみたいだな」
がた、と椅子を引いて立ち上がる。
すがすがしさと、そして、妙な後ろめたさがあった。苦い顔のまま、春宮に視線を返す。
そして、眉根を寄せたまま口を開いた。
「俺が宝生奏介だ」
春宮美涼は、こちらの目を見て、真っ直ぐ言い切った。
「……でも、もう、だめですね」彼女は音もなく目を伏せた。「あの時視た音を、もう今になるとうまく思い出せないんです。記憶も褪せた……。五分強ある曲の中で、色も無数に変化します。それなのに、私が今まで切り取って絵にすることができたのは十枚足らず。記憶が失せていくと同時に、絵を描くことが徐々にできなくなっていきました」
「……」
心臓が早鐘を打っている。蟀谷にも背にも汗が滲んだが、春宮がそれに気づく様子はない。
「ぼやけた記憶では、もう、あの音を描くことはできません。今回の絵が限界だったんです」
「……春宮」
「はい?」
「そこ、どけ」
がた、と椅子を引いて席を立つ。「は?」と、目を見張った春宮が、初めて当惑顔になった。
「な、なんですか、いきなり。どけって、ここの椅子からですか?」
「そうだよ」
「意味がわからないんですが、え? なんですか? 君、まさかピアノ弾けるんですか?」
「意味がわからないのは俺もだよ」
「はい?? アッちょっと、押さないで下さいよ、セクハラで訴えますよ」
「早く」
「り、理不尽……」
――そう。意味がわからないのはこちらの方だった。
何故、自分がピアノの前に座ろうとしているのか。何故、春宮を椅子からどかそうとしてまで鍵盤に手を置こうとしているのか。――わからない。自分でも。
もうピアノは弾かないと、あの日決めたはずだった。少なくとも人に聞かせることは二度とない、と誓ったはずだった。
芸術の世界は理不尽だ。上に行けば行くほど目が眩み、奏でる高揚よりも追い越される焦燥を掻き立てられる。芸術の神は誰かに気まぐれに寵愛を与え、気まぐれに奪っていく。幼い頃からどれだけ天才だ神童だと褒めそやされようが、そんな存在はあとからあとから湧いて出てくる。天才のバーゲンセール。才能だけでも努力だけでも、上り詰めることはできない。
――だから。
ピアノに捨てられる前に、ピアノを捨てようと思ったのに。
「……まあ、別にいいのですけど。仮に君がそこそこピアノを弾けたとして、私の目に映る色が鮮やかに見えるのは結局、宝生奏介の音だけでしょうし……」
ぬくもりが残る椅子に座り、ペダルに合うように前後位置を調節する。聞いていますか、という苦言を無視し、春宮の楽譜を譜面台に並べた。
「フゥ――――、」
深く長く息を吐く。
――久しく感じていなかった高揚感が、確かにそこにあった。そうだ、昔は、弾き始めの一音までのこの緊張感が好きだった。糸が張るような緊張と、高揚。
(馬鹿らしいのは俺の方だ)
どうして、弾かないと決めたピアノの前に座っているのか。
……それは、きっと嬉しかったからだ。
初めて衝撃を受けた絵が、強烈ななつかしさと痛みを以て胸を打った他ならぬあの絵が――たとえ春宮美涼本人が気に入っていないとしても――かつての俺の演奏も人の心を打っていたという証明になっていたことが。
おもむろに、左手を持ち上げる。そして、
――第一音。嬰ハ短調第五音「ソ」のオクターブ。決然と始まりを告げる鐘の音のような、スフォルツァンド。
「え……っ」
勢いよく力強く左手が動き始めたかと思えば、間もなくデクレッシェンドで音量は落ち、ピアノに。同時に始まるのは、『幻想即興曲』内でも最も有名なパッセージだ。疾走する右手が高速で動き、左手がそれを支える。繊細で華やかでありながら儚げなフレーズ。
フォルテとなった十三小節目から二十四小節目は、右手のアクセントが特徴だ。一小節に四音、アクセントがつくため、そこを深く打鍵することを意識する。
「うそ……」
春宮が小さく呻くのが聞こえる。
――瞬間、あ、と思った。
中間部直前で音を外した。早速腕が疲れ、指が回らなくなってきたのだ。
(くそ、もうかよ……!)
いや、もう、というのは正しくないか。出だし――主部から既にかなり音が滑っていた。リズムが取れておらず、うまく鳴らなかった音もいくつかあった。
――ピアノは一日弾かなければ、感覚を取り戻すのに三日かかると言われている。
となると、小学五年からろくにピアノを弾いてこなかったことを考えれば、そこそこ指を回せていること自体がもはや幸運と言えるのかもしれない。――あるいは、小五まで費やした練習時間の賜物か。
ゆったりと歌うような中間部が終わると、再び激しいスピードを取り戻す主題に戻る。手首が固まっていてやはりどうしても音が滑り、リズムが崩れる。――落ち着け。
フォルテとピアノが交互に訪れ、音色は目まぐるしく起伏を繰り返す。
(また運指ミス……)
指が転がり、ミスタッチが多くなる。だが。……それでも最後まで弾き切る。
激しさが徐々に治まると、中間部で出てきたメロディーが左手によって奏でられる。懐かしさを歌う。思い出を辿るように、低く、響かせる。
――あと少しで終わりだ。……終わってしまうのだ、と感じた自分に驚いた。
そうだ。昔は、演奏が終わることを、名残惜しく思うことがよくあった。それは、俺が、ピアノを弾いていて、
(楽しかったからだ……)
――ピアニッシモで奏でられる、最後の和音。
十分に響かせると、俺はゆっくり鍵盤から指を離した。
(弾き切った……)
腕が痛い。久しぶりに使った筋肉が、ひどく痺れている。
「君、は……」
ぽつりと落とされた声に顔を上げると、呆然と目を見開いた春宮がこちらを見ていた。
唇と肩が小刻みに震えている。視線は揺れ、さまよい、定まらない。
「……音と、視えた色は覚えてても、顔は覚えてなかったみたいだな」
がた、と椅子を引いて立ち上がる。
すがすがしさと、そして、妙な後ろめたさがあった。苦い顔のまま、春宮に視線を返す。
そして、眉根を寄せたまま口を開いた。
「俺が宝生奏介だ」