ステージライトが照らす足元が揺らぐ。
白く浮かび上がったグランドピアノに、脳の中心部分が軋む音がした。吐き気がする。

一歩。一歩。

それでも進まなくてはいけないことは理解していたから、ピアノに向かって足を前に進める。手の先が冷たい。心の奥は冷たい。腹の底は緊張で熱い。心臓はまるで耳の傍にあるかのように大きく音を立てていたが、それでも客席の声は厭になる程よく耳に届いた。


――こんなの出来レースだろう。予選聞いたか? レベルが違い過ぎて、他の音が色褪せる。
――今回勝てば高学年の部三連覇よ。才能って残酷よね、ほんと。
――お父様も鼻が高いでしょうねえ。名だたる国際コンクールで何度も上位入賞を果たした天才ピアニスト、宝生楽斗……。ねえ、才能って遺伝するものだったかしら?
――宝生楽斗も勝って当然だくらいには思ってるだろう。なにせ、


息が詰まる。目眩がする。ピアノの前に立ち、椅子を引いて座る。床と擦れてぎいと椅子の足が不快な音を立てるのに、眉を顰めた。
ふと、クリーム色の鍵盤が目に入る。瞬間、うるさいほどの心臓の音と周囲の雑音が、頭の中から排除された気がした。一瞬だけ、視界がクリアにある。
このコンクールで使用されているピアノの鍵盤は、表面のさらりとした触り心地が特徴だ。家に置かれたグランドピアノのそれはつるりとしているが――ああ。

思い出した。そうだ。ここは。家じゃなくて。

――ステージの上だ。

「……っ」

途端、雑音が戻ってきた。俺は見られている。観客の目線がこちらに向いている。
冷ややかに見下ろす瞳が、冷徹な声が、蘇る。勝って当然だ、そう偉ぶりながら宣う観客の声と、あの人の声が重なる。……そうだ。だって。


――宝生奏介。彼は生まれながらの天才なんだから。


鍵盤に手を置く。息が荒くなる。
天才とはなんだ。才能とはなんだ。天才と呼ばれたくてステージに上ったわけではない。勝ちに興味はある。だが誰かを捩じ伏せたかったわけではないし、負けるのは怖い。
ただ、自分は――。

 
その時、俺は。
それまで自分の中にあったはずの鮮やかな旋律が――渇いた音を立てて褪せていくのを、確かにこの心で聞いたのだ。