春、夢に背を向けたまま季節は巡った。
過ぎゆく時間に甘えながら、意思に反して回る環境を恨んだ。

「早瀬おはよう、新学期のくせにぼやっとしてんな」

 『県内随一の進学校』そんな肩書を背負いながら過ごす三年目の高校生活が幕を開ける。新学期が始まる毎に執り行われる進路講習会を受講するため、別棟の講義室へ向かう。

「ここにいる君たちが目指すべき大学は……」

 ベテラン教師が得意げに語る生徒の将来。名の知れた大学に進学し、一流企業に就職することが本当に人生の正解なのかと疑う気力は、数年前に置いてきた。

「早瀬、これ一枚取って後に回して」

「あっ、うん。ありがと」

 『進路希望調査書』

「必要事項を記入して担任に提出するように、以上で講習会を終わります」

 この紙に書くことが許されている希望は安定した将来図であって、不安定な夢ではない。そんなことはわかりきっている。

「早瀬、大学どこか決めた?」

「いや……まだちょっと迷ってるかな」

 本当は、進学なんてしたくない。三年前入学当初のことを思い返す。

『僕は何がしたかった?』

 肩書と進学率は自分を良くみせるための材料でしかなかった、それが今では自分すら見えなく霞ませる呪縛となっている。

「早瀬君!講習会お疲れ様、今年もよろしくね」

「おはよう、高嶺さん……今年もよろしく」

 『高嶺 咲夜』常に首位を独占する成績と、それを決して傲らない柔らかく、晴れやかな性格。不意に映る端正な顔立ちが彼女の魅力をより一層、唯一無二のものにする。僕とは対照的な人、きっと住んでいる世界が違うのだと彼女を見る度に思う。

「高嶺さんは卒業後の進路もう決めた?」

「はっきりとは決まってないけど……進学かな」

「そうなんだ、まぁ高嶺さんなら大丈夫だよね」

 僕のぎこちない返答に『何それ』と無邪気に笑い、彼女はクラスメイトの呼ぶ廊下へ駆けて行った。清楚な印象を決して打ち消さない絶妙なスカート丈の妖艶さに惚れない異性などいない。
きっと彼女とは人生のスタートラインが、そもそも違う。容姿は遺伝、性格は家庭環境によって形成されるという言葉をよく耳にする。彼女の容姿や性格はきっと、天からの授けものなのだろう。容姿の良さと比例して称賛を得るきっかけも多くなる、得た賞賛によって心に余裕ができれば性格も真っ直ぐに形成されていくのだろう。
生まれた瞬間から、世界に優遇されている彼女が羨ましい。
 僕も叶うことなら、彼女の生きている世界で生きてみたかった。

「ただいま」

「おかえり空、いつもより帰り早いんじゃない?」

「今日は始業式と講習会だけだから午前中で終わりなんだよね」

「講習会なんてまだあったんだ、懐かしいなぁ」

 僕の帰宅を出迎えたのは、父でも母でもなく姉だった。
三年前、僕と同じ高校に通っていた姉は、ある日を境に家から出なくなった。成績も優秀で、姉の口から友人間でのトラブルに関する話は一度も聞いたことが無かった。最終的に出席日数の不足が原因となり自動退学という形になったらしく、今は日中働きに出ている両親の代わりに、三歳の弟の世話をしている。兄弟間の年齢差から分かる通り両親の関係はかなり良好。

「空は三年生になるんだね、これから忙しくなっちゃうのかもね」

「なんだか息苦しいな」

 溢す気のなかった弱音に戸惑い、慌てて自部屋へ向かう。
本当はもっと早く、この息苦しさに向き合わなければいけなかった。疑うこともなく並べられていく普通に従う度、自分の意思に目を瞑る違和感が重なっていく。

「このノート、最後に開いたのいつだっけ……」

 引き出しの奥に押し込んでいた作詞ノート。そうだ、僕は音楽が好きだった。

「空、入ってもいい?」

「うん、大丈夫だよ」

「ねぇ、お姉ちゃん……これ覚えてる?」

「このノート……まだ空のところにあったんだ」

 音楽で食べていきたいと本気で思っていた当時の自分を押し込めるように進学した選択を悔やむ。

「最近は何か書いてるの?」

「……書けてない」

 溢れるように出てくる言葉を書き留めるのに必死だった手は、いつしか渇ききった言葉を振り絞るため頭を抱える手となった。時間が経つにつれて言葉を紡ぐことすらできなくなった。

「ねぇお姉ちゃん」

「ん?」

「僕がもう一度音楽を、作詞を本気でやってみたいって言ったら……お姉ちゃんはなんて言う?」

「その選択を心のそこから応援する、お姉ちゃんにできることはなんでも協力する」

「それを理由に学校を辞めるって言っても?」

 数秒の間の後に、姉の口が開く。

「空が考えた上での答えなら、その選択も正解だと私は思う」

「……そっか」

「ねぇ空、お母さんたちが帰ってくるまで少しゆっくり話そうよ」

 僕の隣に腰掛ける姉の存在が、感じたこともない程心強かった。

「僕はもう一度、本当にやりたいことをやってみたい」

「それが空にとっては音楽……?」

「別に音楽は学校に通いながらでもできるって僕もわかってる、でも……」

 あと少しで、この違和感を言葉にできる。

「あそこにいると、僕自身がしたいことを見失っていく」

「見失う……?」

「好きっていう感情より先に、安定的か、世の中から必要とされているか。そんな損得ばかり考えちゃう」

「空……」

「本当は勉強も音楽も綺麗にこなせるのが理想だけど、僕はそんなに器用じゃなかった。場の空気に従うか、自分を殺すかしかできなかった……」

 三年間、ずっと目を瞑ってきた本当の気持ち。僕が本当に好きだったこと。この夢は誰にも言わずに墓場まで抱えていくんだという決意は、この瞬間に崩れた。

「私は、空の将来を決める権利はないけど……ひとつだけ言えるなら」

「ひとつ……?」

「私は空の紡ぐ詞が好きだよ」

「僕の詞が好き……?」

 それは、僕がずっと欲しかった言葉。

「あっお母さんたち帰って来たよ、この話はまた後で」

 庭からのエンジン音を察知し、重い空気を断ち切るように姉は話を切り上げた。

「ただいま」

 結婚して十数年経っても変わらず『夫婦』として『親』として、真っ直ぐに何かを愛するふたりを人間として尊敬する。そんな理想的なふたりの支えの上で成り立っている今があるからこそ、身勝手な夢を打ち明けることが怖かった。

「お父さん、お母さんお帰りなさい」

「空!新学期お疲れ様、最後の高校生活楽しむのよ」

 姉が正式に退学を決意した時も、両親が姉の気持ちを咎めることは一度もなかった。
進路を重視する学年に進級した僕への掛ける言葉からも、その確かな寛容さと優しさを感じる。ただ、今の僕にはその優しさが痛かった。

「あら……空、食欲ない?」

「あ……うん、ちょっと久しぶりの学校で疲れちゃって、今日は早めに寝るね」

 恵まれすぎた環境に居ながら、何も見出せない自分への惨めさだけが募っていく。

「空、ちょっと入るよ」

 扉を叩く音と同時に、姉の声が聞こえた。

「お姉ちゃん……ごめん、心配かけて」

「そんなこと気にしなくていいの!悩む時なんて誰だってあるんだから」

「お姉ちゃん……ありがとう」

 静かに扉を閉めた後、数時間前と同じように隣に腰掛ける。

「さっき話してくれたこと、空の中では確かなことなの?」

「僕の中では……」

「余計なことは考えなくていいよ、空がどうしたいか、何が好きかそれだけを考えてほしいの」

「僕は……好きなことを、夢を追いたい」

「その言葉が聴けて、少し安心したよ」

 僕の言葉に安堵しながら、やや緊張感のある表情で姿勢を正す。

「空、これ考える材料にしてみて」

「何……これ?」

 渡された茶封筒には、僕の通っている校名が刷られていた。

「退学書類一式」

「退学書類……?」

 姉からの予想もつかない返答に息を呑む。

「空、今日『進路希望調査書』渡されたんじゃない?」

「なんでそれを……」

「それは、私だって三年前まで一応生徒だったんだからシステムくらい覚えてるよ」

「でも……それとこの書類は」

「進路は進学するだけじゃないでしょ?空の未来を決めるのは空自身なんだから、選択肢は多いほうがいい」

「お姉ちゃん……」

「まぁ許されるかギリギリの行為だから、私がこの書類を渡したことは内密にね」

 こういう破天荒さも、姉の好きなところだ。

「お姉ちゃん、この書類……」

「安心して期限は切れてて提出しても無効だから」

 封筒から書類を取り出し、文字列を眺める。内側の葛藤を消し去るように綴られる淡々とした言葉に虚しくなる。

「本当に決断する時は、お母さんとお父さんにちゃんと空の口から話すんだよ」

「……そうだよね」

「大丈夫、ふたりが一番に考えてるのはいつだって空自身のことだから」

「僕自身のこと……」

「私のときもそうだった、だから怖がらなくて大丈夫」

「いつかちゃんと、僕の言葉で話すね」

「それまでは私がいるから大丈夫、なんでも力にならせてよ」

 自分の中で、ほぼ決まりきった決断に少しだけ息がしやすくなったのを感じる。

ー*ー*ー*ー*ー

 言葉に表しきれないままの決意を握り階段を登る、作詞ノートを片手に屋上への扉を開けた。

 
 













屋上特有の扉の重さと、その反動からの風に目を瞑る。
作詞の種を探しに立ち入り禁止の鍵を開けたのは、実は初めてではない。高校一年生の夏にも一度、ここを訪れた。当時と同じように規則を破ることへの躊躇いを抱えながら足を踏み入れた。

ー*ー*ー*ー*ー

 握りしめた手には、スマートフォンと有線イヤホン。日陰を探し、酷く荒れた呼吸を落ち着かせる。その日はちょうど初めての大学説明会があった日だった。

『ここにいる君たちが生きる現代社会は学歴が全てだからね』

 その言葉が何度も頭に響く、脳裏にこびりついて離れない。
綺麗に安定をなぞることを間接的に強要された瞬間、酷い悪寒と吐気に襲われ、そのまま講義室を飛び出した。
誰にも吐けない弱音の行方は、全て音楽に頼ることしかできなかった。

『無音』

 突如現れた、本人に関する情報が全て非公表な謎に包まれたアーティスト。年齢、性別はもちろん顔すら公開されておらず、届けられる情報は音楽のみ。
その音楽に歌詞はなく、映像も題名もない。『有名アーティストの裏活動』『引退した作曲家の匿名活動』『音楽史に名を残した偉人の生まれ変わり』など数多くの考察が繰り広げられるものの、その全てに根拠はない。

「……」

 『無音』の音楽には不思議な力がある。歌詞のない旋律だけが紡がれる中に、聞こえるはずのない不明確な言葉が聞こえてくる。そしてその言葉の中に確かな叫びがある。

「僕の創りたい音楽は……」

 スマートフォンに保存した書きかけの歌詞を辿る。いつか『無音』のような誰かの心を揺れ動かす音楽に僕の言葉を乗せたい。
 『無音』の正体についての考察の中に『無音AI説』というものがある。完璧なメロディーと無機質な音の羅列、有名な特定班が探っても一つとして見つからない情報から説が浮上し、多数のインターネットユーザーがその説を信じ、議論は一時収束した。
ただ僕はいまだに、その説を信じられずにいる。

「この曲は、確かに人間が創ってる」

 『無音』の曲はどれも、強い孤独と拒絶、そして隠しきれない臆病さがある。
ただその冷酷さの中には『ここにいていい』と教えてくれる温かさがあった。

「もし同じ世界に『無音』がいるのなら、僕は死ぬまでに貴方と言葉を交わしたい」

 盲目的に信じきった『無音』の架空の像へ、液晶越しに祈りを告げた。
きっと『無音』は僕なんかが触れてはいけないほどに尊い存在で、言葉を交わしたいだなんて贅沢な願いは叶うはずがない。

「でもいつか…『無音』の曲に僕の言葉を」

 叶う可能性すらない夢を描き、諦め、流すように『無音』の曲を聴く。

ー*ー*ー*ー*ー

 二年前のあの日と同じように、屋上に辿り着いた僕はまた『無音』をイヤホン伝えに感じている。
何一つ変わっていない自分が惨めになる。自分の夢に背を向けたまま、空気に抗うことを恐れて従うたびに胸が締め付けられる感覚を背負っている自分の無力さに落胆する。

「新曲……?」

 相変わらずの黒背景と旋律だけの音源に詰められたものは、感じたことのない絶望だった。
強風に促されイヤホンを外すと、誰もいないはずの屋上の奥からフェンスの軋む音がした。

「……?」

 揺れる髪と靡くスカート、僕の目を惹く白く細い脚。

「早瀬君……?」

 信じ難く、現実とは思えない光景。ただ確かに僕の目に映っているのは

「高嶺さん……?」

 躊躇いながら、彼女の名前を呼んだ。
 隣の席から見る姿とは違う雰囲気を纏った彼女に言葉を詰まらせる。

「高嶺さん、どうしてそこに……」

「大体想像通りだと思うよ?小説とかドラマで見たことあるシーンでしょ、こんなの」

 フェンスの外側に立つ彼女に野暮なことを訊いてしまった。
奇妙な程に余裕のある彼女の返答には、計り知れない狂気が含まれている。

「想像はつく……でも」

 くるりと振り返り、彼女は僕と目を合わせた。何を見ているのかはわからない、狂気を詰め込み生気を失った黒い眼。

「やっぱり人生の最期くらい、面と向かって話すのが筋だよね」

 僕の予想が確信に変わった。

「早瀬君はどうしてここに来たの?」

 この後に及んで『作詞の材料探しに』なんて呑気なことを言うわけにはいかない。

「ちょっと息抜きをしたくて」

「そっか、まぁ非日常的な空間をお楽しみくださいよ」

 これが最期の余裕なのか、それとも恐怖を霞ませる戯けなのか。
フェンスを潜り、彼女は僕の足元にしゃがんだ。

「これ落ちたよ……って、この曲」

 『無音』の曲が自動再生されたままの画面。

「早瀬君はこの曲をよく聴くの?」

「どうして……?」

 『無音』の曲には映像も題名もない。初めて見た人が『音楽』と認識するのには難しすぎる。

「どうして曲ってわかるんですか……?」

「なんとなく聴くなら音楽かなって思ったから、その人の名前なんていうの?あの世で聴きたいから教えてくれるかな」

「『無音』っていうアーティストです」

 数秒の沈黙、立ち上がる彼女の表情は疑ってしまうほど晴れやかだった。

「最期にいいこと教えてあげるよ」

「この『無音』って人、私なんだ」

 一瞬だけ脳裏を過ぎった違和感が繋がり糸を張る。ただその衝撃に放たれた言葉を上手に呑み込めない自分がいた。

「高嶺さんが……?」

「最期に私の曲を聞いてくれている人に出逢えてよかった、幸せな人生だね」

「僕、高嶺さんの創る曲が本当に大好きなんです」

「お世辞だとしても嬉しいよ、ありがとう」

 こんな安直で稚拙な言葉で引き止められると、少しでも希望を抱いた自分が怖い。

「早瀬君」

「……はい」

「話し相手になってくれてありがとね、何かあると怪しまれちゃうから先に校舎に戻っててよ」

「それって……」

 無言で頷き、冷たく強張った手が僕の手を握る。

「高嶺さんは、何に苦しんで、何から逃げたいんですか」

 無神経な問いなのかもしれない、ただ全てを終わらせることを望んでいる人を目の前に見過ごすわけにはいかなかった。きっとこれは無駄な正義感。

「苦しんでいるというより、諦めてる」

「諦め……?」

「どれだけ願っても私がここにいる理由を見つけられる日は来なかったから」

 迷う間もなく告げられた答えに戸惑う。逃げ場として向けた彼女の眼は未だ黒いままだった。

「最期なら……早瀬君と言葉も選ばない話がしたい」

 そう口を開いたのは彼女だった。言葉を選ぶ必要がないのなら、僕の中にある無神経な問いを投げかけることも許されるのかもしれない。

「高嶺さんは、僕なんかよりずっと恵まれているように見える」

 無神経な疑問は、愚鈍な呟きとなって口から漏れた。恥ずかしさすら覚えてしまう言葉を彼女は逃さず拾い上げた。できることなら、そのまま捨ててほしかった。

「早瀬君の目に、私はどう映っているの?」

 誰にも劣ることのない成績と容姿、謙虚さと優しさを持ち合わせた秀でた人間性の持ち主。いくら記憶を遡っても、僕が出逢った人の中で、どの観点においても彼女に勝る者はいない。常に完璧を生きている存在。
きっと今並べた言葉の大半は、僕が交わした微量の会話からの想像で、そこから創り上げた偶像、酷く無責任な言葉だと自覚している。

「随分と気を遣ってくれたみたいだね」

「これが僕からみた高嶺さんなので」

「上手に嘘をつける性格でよかった、早瀬君も私の嘘を信じてくれてありがとう」

 確かに僕が見ていた『高嶺 咲夜』はほんの一部。嘘をついていたのならば、その嘘を暴けるほど彼女自身を見ていたわけではない。
ただ、『無音』の音楽に心の底から救われ、それを愛していたことに間違いはない。

「それなら『無音』も全て嘘だったんですか?」

 彼女の動作が止まる。狂気に満ちていた彼女の眼に、絶望を感じた。
今、僕の目の前に立っているのは『高嶺 咲夜』ではなく『無音』だと気づく。

「『無音』として創る音楽は私に残された最後の本当だった」

「最後の本当……?」

「全てを隠して、本当の私を生かしていた場所が『無音』だった」

「新曲」

 不意に『無音』の新曲が頭を過ぎる。浮かんだのは旋律ではなく、聞こえるはずのない絶望の叫び。その叫びが彼女の本心なのだとしたら。

「『無音』がこの曲に込めた想い……教えてほしいです」

「最期の希望を託す気持ちだった」

「最期の希望……ですか」

「あの曲を創れば何か答えが見つかると思ってた、結局何も見つからなくて空っぽなままだった」

 僕が感じていた存在する理由を探し求めている絶望の『叫び』は間違っていなかったらしい。その感覚に確かに救われた僕がいることも証明された。
住んでいる世界が違うと隔てていた彼女と僕との間に、通じ合える何かがあるのかもしれない。

「僕は、その曲に救われました」

「救われた……?」

「歌詞がないはずの旋律に、確かな叫びが聴こえてくるんです」

「私の曲にそんな力はないよ」

「じゃあどうした曲を創り続けているんですか?」

 歌詞も映像もない曲の概要欄にはいつも『貴方を救うため』という言葉だけが添えられている。

「私が曲を創る理由……」

「概要欄の言葉には、何が込められていたんですか」

「誰かを救った感覚で、私自身の存在を肯定したかった。私を私として覚えていてほしかった」

 息を詰まらせながら語る彼女は、見ていられないほど痛々しく、弱々しかった。

「それが高嶺さんの望みなら、全てを終わらせるのは望みを叶えてからにしませんか」

「叶える……?」

 僕は今、無責任な言葉で彼女の人生を変えてしまおうとしている。

『僕と最期の曲を創る旅に出ませんか?』

 彼女が嘘を塗り続けたことと同じように、僕自身もずっと本当から目を逸らしてきた。
この選択が正解か不正解か、今の僕にはわからないけれど何かが変わるという結果だけは明白だった。
交わるはずのなかった縁が重なる。

「高嶺さんの人生を左右するような決断を僕が下す権利はないけど……このままじゃ」

「早瀬君に預けたい」

 僕の言葉を遮るように放たれた言葉は鋭かった。

「僕に……?」

「私ひとりでは抜け出せなかったから、初めて本当の私を『無音』を愛してくれた早瀬君になら託したいと思える」

 彼女自身の傷も痛みも、僕にはまだわからないけれど確かに繋がった『叫び』を辿ってみようと思う。
思っているほど長くないふたりの残り時間を、僕は一瞬も無駄にしない。
 





 私を覆う空は、皮肉なほどに青かった。
重い扉を押し開け、強風を受ける。理科室から持ち出したペンチでフェンスに穴を開けた瞬間の開放感にはどこか後ろめたさがあった。

「……」

 見えている景色の全てが偽物のように映る。
頭を下げる会社員、買い物帰りの主婦、広告に映る女優の顔も全て。相手が求める基準を満たすことができなければ、自分が存在している価値など無いものとされてしまう。
たとえ基準を満たしたとしても、価値がつく保証はない。理想の型から溢れた者から除外され、構成されたこの世界。

「私はどうなる?」

 『優等生』響きだけは美しい、きっと昔から求められてきた称号。私についた数字に対する賞賛と、利用するための甘い言葉。
学生という有効期限が過ぎれば何の価値も残らない免罪符に縋って、数年後の自分はきっと空のまま。誰一人『私』を求めている人は存在しない。

『高嶺さんなら大丈夫だよね』

 示された道を踏み間違えずに辿っていく行為を繰り返す度にどれだけの惨めさが私を襲うか、彼はきっと知らない。本当の私の醜さも幼稚さも全て。

「今なら、貴方の気持ちが痛い程わかる気がする」

 貴方が飛び立ったあの日、私は人がいなくなるということすら知らなかった。貴方に初めて教えられた知りたくなかった真実。怪我をしたことはあったけれど、流れる大量の血液が赤黒いことは知らなかった。
そして今、人は簡単にいなくなれると初めて知った。

「でも貴方が生きていた世界より、今は少し生きやすくなった人も増えたのかもね」

 昨今、この世界には『多様性』という便利な言葉が生まれ、人々の価値観に侵略していった。
誰がどんな格好をしても、どんな意識の中で生きても、それを尊重して生きやすさを創るという妄想じみた言葉の塊。ただその中にも型があって、本当に息のしやすい世界はどこにあるのか探すのに必死だった。一度型に当てはまってしまった人間がそこから外れることがどれだけ大変か痛感した。

「貴方がいなくなってからの私は……」

 何も知らないまま時間だけが過ぎていった。示されるまま、促されるまま進んだ道の先に待っていたのは退屈で、息が詰まる閉塞的な場所だった。
そんなことも知らずに、貴方はこう書き遺したね。

『お空で幸せに暮らすね』

 そんな子供騙しな台詞を遺して、今何を思って私を見ているのだろう。

「お兄ちゃん……ごめんね」

 大好きな兄のことを恨むようになったのはいつからだろう。
本当は子供騙しなんかじゃない、この苦痛は兄のせいではない。意思を隠し、抗うことすら諦めた私のせい、上手な逃げ方すら身につけないまま大きくなった私の結果。
息をし続けたところで、何ひとつ見出せないまま数十年後に息を引き取るだけ。偽物にすらなりきれないまま、自分が誰かもわからないまま屍のように生きる瞬間の繰り返し。

「変えるには、終わらせるしかない」

 この世界で唯一、他者が咎めることのできない逃げ方を私は知っている。
その結末を人は良くも悪くも三日で忘れる。恐ろしいほど効率的で、今の私には都合がいい。
フェンスの外側、ここから一歩でも先へ行けば私は生まれ変わることができる。

『えっ……?』

 誰もいないはずの屋上、背後からの声を辿った先には

「早瀬君……?」

 私の人生の最期を見届けるのは、何の思い入れもない一クラスメイトのようだ。
私の様子に驚きを隠せない彼の顔を見ていると、妙な余裕が生まれてきた。思い入れがなかったおかげで決断を邪魔する感情が湧いてこなかった。彼の質問に機械的に答え、頷く。彼がどんな言葉を放ったとしても私の未来が変わる可能性なんてないのに、震えた声で必死に正解を探す様子に少し申し訳なさを感じた、私もまだ人間だから。

「これ落ちたよ……」

 彼の手から静かな音をたて落ちたスマートフォンには『無音』の、私の創った曲が映っていた。異常なほどに冷め切った鼓動が、感じたことのない動悸として動き出す。

「早瀬君はこの曲をよく聴くの?」

 もし、この世界で本当の私を受け取り好んでくれた人がいたのなら、それだけで私の人生は報われた気がする。

「どうして曲ってわかるんですか……?」

 盲点だった。私の曲には題名も映像もない、一目見て『音楽』と捉えられる特徴はない。

「何となく聴くなら音楽かなって思ったから、その人の名前なんていうの?あの世で聴きたいから教えてくれるかな」

 取ってつけたような言い訳は、生きている間に身につけた術だ。

「『無音』っていうアーティストです」

 その存在が誰かの中で生きていると確認できてよかった、思い入れもないクラスメイトだったけれど、最期に忘れられない感動をくれてありがとう。そんな彼に私にできる最大の礼がしたい。

「この『無音』って人、私なんだ」

 隠し通すつもりだった、誰にも言わないつもりだった『無音』の正体。
これを明かすということは『本当の私』を知られてしまうことだから。醜く弱い姿を晒すことと同じだから。
お世辞は要らない、ここで私という存在を認められてしまったら未練が残ってしまう。「つまらない曲」だと「こんな暗い曲誰が好むのか」と地の底まで蔑んでほしい。

「僕、高嶺さんの創る曲が本当に大好きなんです」

 私は彼といると、最期の決断すら下せなくなる気がする。
『私』が『高嶺 咲夜』を演じ続けることはしたくない。歳を重ねていく度に自分の気持ちに目を向けなくなった。最後に残された『私』それが『無音』だった。
誰にも言えない、言ってはいけない存在。

『僕は、その曲に救われました』

 そんなことあるわけがない、あっていいはずがない。
誰かを救ったという感覚で、私自身の存在を肯定したいという汚い欲望が底にある曲。そんな曲が人の心を動かせるはずがない。
でもその言葉が本当なら、私は少し救われた気がする。本当の私を認められた気がする。

「……」

 彼の唇が動く。何を言ったのか聞き取れなかったけれど、晴れやかな表情から少しだけ希望が見えた。

『僕と最期の曲を創る旅に出ませんか?』

 これだ。きっとこの選択が私に残された最後の『私』を生きる道。
正解か不正解かはわからない、それでも私はこの直感を信じたい。

「早瀬君に預けたい」

 私ではみつけられなかった未来を示してくれた貴方になら、預けてみたいと思えた。
私の願いを添えて、不確かな未来を紡ぐ相手に出逢ってしまった。

 
 
 

 



 あの日、屋上で希望を託してから数週間が経つ。

「高嶺さん、おはよう」

「早瀬君は朝早いね、おはよう」

 彼に連れられたのは、電車で二時間程の山奥にある古屋。

「高嶺さんはここでの生活は慣れた?」

「少しずつ慣れてきたよ」

「突然のことだったからね、本当についてきてくれてありがとう」

 この生活は本当に突然始まった。
あの日、私は誰にも見つかることなく屋上を出て、止まることもなく通学路をセーラー服で駆けた。その途中で背負っていた通学カバンを川へ投げ捨て、学生証は落ちていたライターで燃やした。
最低限の生活用具と衣服、あるだけのお金をかき集めて使い古したリュックサックに詰める。最後に欠かしてはいけない作曲のデータが全て入っているノートパソコンを持ち家を出た。

「こちらこそ、連れ出してくれてありがとう」

 彼が連れ出してくれずにいたら、今の私は灰となって眠っている。

「高嶺さんご家族からの心配は大丈夫だった?」

「それなら問題ないよ、早瀬君こそ大丈夫だったの?」

 『問題ない』という言葉に疑うような表情を浮かべながら彼は口を開いた。

「僕の事情は姉に話してあるから大丈夫だよ」

 時刻は午前四時、自然に囲まれた空気は澄んでいて野鳥の声の響きが心地よい。

「高嶺さん、小屋の周りにしか出たことなかったよね?朝食まで時間あるからちょっと散歩してくる?」

「食事、早瀬君に任せちゃっていいの?」

「ここは綺麗な景色が多い、せっかく来てくれた高嶺さんにもそれを見てほしいんだ」

「じゃあお言葉に甘えて……ありがとう行ってきます」

 扉を開けると窓からでは感じ取れない空気が舞い込んでくる。透明で世界の綺麗な部分を掬い取ったようなものが肺を埋めつくす。
誰もいないと錯覚させるほどの静寂の森の中で、地面を踏みしめる足音と自然を生きる音が鼓膜を震わせた。

「この花綺麗……」

 日の当たらない場所に一輪咲く青い花。咄嗟に写真を撮ろうとポケットに触れるがこの瞬間で目に焼き付けることに価値があるのかも知れないと、その手を離した。
小さくて細い、だけど力強いその存在に心を奪われた。

「あっちの方、すごく光が差し込んでる」

 木々の隙間から光が一筋真っ直ぐに降りてきている。
生命の起源のような光、自然と引き寄せられる光。この光の発信元は空。

「これはお兄ちゃんの欠片……?」

 現実味のない妄想じみた呟きに息が早くなる。
目を逸らしたいという意思に反して、足は光の方へ動いた。しゃがみ込んだ光の焦点には、この世界のものとは思えないほど綺麗に草花が照らされていた。触れたら消えてしまうそうな空間。

「そろそろ戻らないと……」

 時計もないのもない空間で声が聞こえた。誰の声かはわからないけれど、私の帰りを待つ人の声。

「ただいま」

 扉を開け、彼の様子を確認する。

「高嶺さん!タイミングちょうどいい!おかえりなさい」

 この言葉を聴いたのは何年振りだろう。柔らかく、弾んだ声で迎え入れられる瞬間がずっと続けばいい。

「高嶺さん?立ち尽くしてどうしたの?冷めないうちに食べようよ!」

「あっ……うん!ありがとう」

 食卓に並んだ幸せの色。鼻を伝う香りは優しく、目に映る君はそれ以上に優しかった。
彼は私に暖かさをくれる。数年前感じた『あの暖かさ』に似てる。
彼の本心はまだわからないけれど、彼は私にとって確かな光となっている。進むべき道を照らし、導いてくれる存在。

「早瀬君のつくるご飯、やっぱりすごく美味しいね」

 共同生活が始まり数週間。
改めて感じた優しさの味、この生活が続いていきますように。
 彼女との生活が始まり数週間、僕はいまだにこれが正しい選択だったのか問い続けている。

「高嶺さん、おはよう」

「早瀬君は朝早いね、おはよう」

 午前四時、寝癖をつけた無防備な彼女のいつもより少し早い起床。
年頃の男女が一つ屋根の下で生活を共にする、それも数週間前に関係を築いた者同士。平凡を辿ってきた僕の人生にここまでのイレギュラーが舞い込むとは思ってもいなかった。

「高嶺さんはここでの生活は慣れた?」

「少しずつ慣れてきたよ」

 判断力の鈍くなっている時に突然の選択を迫ってしまったこともあり、彼女自身がこの生活に対してどのような感情を抱いているか正直怖かった。都心に住んでいる女子高生を山奥の小屋に連れてくるという一見事件のような状況。

「最近は……ちょっと楽しいかな」

 微かに聞こえたその声が、彼女の本音だったらいい。
彼女はよく笑い、陽気な雰囲気を纏っている。ただ僕にはそれが本当の彼女のようには見えなかった。不意に感じる影に拭いきれない違和感を覚えた。

『最期に私の曲を聞いてくれている人に出逢えてよかった、幸せな人生だね』

 あの時も、細めた目の奥に光なんてものは欠片すらなかった。
きっと僕はまだ本当の彼女を知らない。

「高嶺さんのご家族からの心配は大丈夫だった?」

「それなら問題ないよ、早瀬君こそ大丈夫だったの?」

 何かを知るきっかけになればと発した問いへの答えは、意味深な言葉だった。
『問題ない』聞き間違えか、考えすぎか。その一言がどうも気がかりだった。

「高嶺さん、小屋の周りにしか出たことなかったよね?朝食まで時間あるからちょっと散歩してくる?」

 少しだけ、ひとりで考える時間が欲しい。
彼女との関わり方を、彼女の本当を知る方法を、この生活の先にある何かを、今一度考えたかった。
彼女を見送り、止めていた火を付け卵を割る。
当然のように二人分の朝食をつくる、住む世界が違うと隔てていた『高嶺 咲夜』という存在が隣にいるという想像もしていなかった事実。

「似てる……」

 彼女の写真をみて不意に脳裏を過ったのは姉の姿だった。
裏側のわからない笑い方も不意に感じる影の濃さも、姉と重なる。ただ決定的に違うのは、彼女には全てが光に変わる瞬間が存在するということ。

「『無音』……」

 その正体を知ったあの日。数秒前まで狂気に満ちていた彼女の眼は、一瞬にして晴れた光を宿した。
吸い込まれ、引き寄せられるような瞳。全てに終わりを告げている人間とは思えない輝きがそこにはあった。
彼女自身が生きている瞬間を僕は確かにこの目で見た。

「彼女が『無音』で居続けるために……」

 きっとそれが今の彼女を生かす方法、ただその有効期限が切れたら……。『無音』という存在すらも諦め、縋る場所がなくなった時、彼女は何を願うのだろう。
新たな音楽か、自己表現の空間か、それを受け止める対象か。永遠ではない存在に身を委ねることほど不確かで危険なことはない。

「……この生活もいつかは」

 未成年の男女による計画のない共同生活が長く続くとは考え難い。
やりこなせる部分もある反面、金銭面やその他諸問題によってのトラブルはきっと避けられない。もし彼女が、いつか終わりが来るこの生活に居場所を見出しているとしたら、僕がその居場所を奪ってしまうことになる。彼女が信じて掴んだ手を、振り払うことになる。

「そうなる前に何ができる……?」

 彼女と関わりを持ったのは、ほんの数週間前。
彼女自身のことも、彼女を取り巻く環境すら知らない僕が、唯一通じ合った『叫び』直接答えを訊かずとも繋がった本当の想い。
もう一度、あの曲を思い出す。最後に僕が感じ取った叫びは『光を求める叫び』それが絶望の底で、生きようと足掻く彼女の叫び。
そうだ、だから僕は……

「ただいま」

 不思議そうに台所を覗く彼女に手を振り出迎える。

「高嶺さん!タイミングちょうどいい!おかえりなさい!」

 小さな歩幅で洗面所へ向かう彼女の背を見る。幼さの残る姿に、また一つ彼女の新たな側面を知った。席についた彼女の前に朝食を運ぶ。

「早瀬君のつくるご飯、やっぱりすごく美味しいね」

 そう無邪気に呟く彼女が愛おしい、恋とは違うこの感情。
少しずつ進んでいく僕たちの未来に、本当の彼女でいられる時間が溢れていきますように、僕が貴女の光となれますように。
祈るように合わせた手を解き、少し冷めた卵焼きを頬張る。
 午前四時、彼女が眠っているうちに、『無音』の曲を聴く。
共同生活が始まってから新曲の投稿は滞っていて『無音』に対する噂は、界隈内でより盛んなものとなった。

『有名な作曲家の裏活動だとしたら、亡くなったとかも考えられるんじゃない?』

 可能性を並べただけの考察が若干の信憑性を含んでいることが少し気になる、その言葉が彼女の目に触れていないことを願う。
懐かしい曲に浸る。『高嶺 咲夜』という人間を知る度に『無音』という存在と重なるものが見えてくる。
直接話したことはないけれど『無音』の曲は表情豊かで、その表情は全て真の感情からきている気がする。喜怒哀楽、その中間を捉える曖昧な心までを忠実に描くのが『無音』の曲。

「……早瀬君おはよ」

午前七時、彼女の声に慌てて画面を伏せる。

「高嶺さん……!おはよう」

不審そうな眼差し、隙をついた白い腕が伸びる。

「これは……違くて……」

 避けたい。僕が『無音』の曲を聴いている状況に直面して困惑するのは、きっと彼女だ。目の前で自分の創った曲を聴かれる、現代風の言葉を使うとしたら圧倒的に「気まづい」。

「別に、引かないから隠さなくていいよ」

「引く……?」

「早瀬君がそういうの見てても別に引かないから」

 僕は今きっと、壮大な勘違いをされている。

「そういうの……って?」

「私に言わせるの?」

 これは勘違いではなく、冤罪をかけられているも同然。

「いや僕は別にそういうつもりじゃ……」

「だから……余計な言い訳は要らないから!男子高校生ならそういう動画の一つくらい普通見るでしょ」

 彼女の脳内には今、『朝早くからリビングで欲を満たす僕』が完成されている。一刻も早く誤解を解きたい、ただ真実を伝えることも少し気が引ける……。

「早瀬君が黙り込むなら、勝手に失礼するね」

 伏せていた画面が顔を出す。

「高嶺さん、これは……」

「私の曲……聴いてくれてたの?」

 誤解は解けたが、その後に放つ言葉が見当たらない。

「複雑……だよね?自分の曲目の前で聴かれるの」

「いや、他の人がどうかはわからないけど……私は嬉しい」

「えっ……?」

 予想外の返答に戸惑う。

「私っていう存在を知った後でも、曲を愛し続けてくれていることが嬉しい」

 珍しく素直な『嬉しい』の後に、頬を赤め下を向く彼女が可愛らしい。

「そんなことより……私に変なこと言わせないでよ」

「それは、高嶺さんの思い込みでしょ……!」

 綺麗で完璧な『高嶺 咲夜』を描いていたが、僕が思うより彼女は普通の女子高校生だという事実に少し安堵する。

「どの曲聴いてたの?」

「ちょうど二年前に投稿されたこの曲、覚えてる?」

「これって……初めて投稿した曲じゃない?」

「そうそう、なんとなく原点に戻りたくなってね」

 イヤホンの線を抜き、空っぽな空間に澄んだ旋律を響かせる。
今とは少し違う曲調で、聴こえてくる『叫び』も違う。この頃の高嶺さんは何を思い、この曲を創り出したのだろう。初めて曲を生み出す瞬間、彼女の想いを形にする程の感情のきっかけは何だったのだろう。

「ねぇ高嶺さん」

「……ん?」

「高嶺さん自身が『無音』に出逢ったきっかけって何ですか?」

 きっかけを知ること、それが僕たちの形を創る始まりになるのかもしれない。



 私の音楽のきっかけは何だったのだろう。
きっと『自分が救われたい』なんて欲深いものではなく、もっと純粋で綺麗なものだったと思う。

ー*ー*ー*ー*ー

「お母さん……お兄ちゃんとお父さんはいつ帰ってくるの?」

「咲夜が待っている限り、絶対帰ってきてくれるわ」

これが、私の記憶にある家族に関する最後の会話。

ー*ー*ー*ー*ー

 厳格な父と、病弱な母、成績優秀な兄。これが私の家族構成。
ひとまわり近く離れた兄は私のとってかけがえのない存在だった。これは消し去ってしまいたい数年前の記憶。

ー*ー*ー*ー*ー

 兄の定期テストが返却された日は、必ず罵声が宙を舞う。
放たれる言葉の意味すら理解できなかった私でも、兄の人格そのものを否定する言葉を聞くと胸が痛んだ。
兄と父が違う部屋に入ったことを確認した後、私は必ず兄の元へ行く。

「お兄ちゃん……」

「咲夜、怖がらせちゃってごめんね……こっちにおいで」

「お兄ちゃんは悪くないよ、だから謝らないで」

「……咲夜は優しいね」

 痩せ細った兄の腕に包まれる。
強がりな優しさをくれる兄の身体は酷く震えていた。このまま消えてしまうのではないかと思う程か細い声で『大丈夫だよ』と囁く兄の声が好きだった。
その夜は決まって眠る前に兄が唯一許されていたアコースティックギターを弾いてくれる。兄はどんなに苦しいことがあっても変わらない優しさをくれる、涙を呑んで笑顔をつくる兄をどうか守りたかった。
いつか兄を守れる日が来ればいいと願う度に、盾になるのは小さすぎる身体と頭の容量を恨んだ。

「お兄ちゃん」

「どうしたの咲夜?」

「私、お兄ちゃんとずっと一緒にいたい」

「僕も咲夜が大きくなる姿を隣で見ていたい」

「お兄ちゃんが辛い時は、私が元気にしてあげたい」

「咲夜は本当に優しくて素直な子だね」

 父の前では萎縮している兄が見せる晴れた表情が大好きだ。
完璧を取り繕うとする兄も素直に笑い、目を潤ませる幼さがある。きっと兄は早く大人になったフリをしなければいけなかっただけ。我儘に泣き、遊ぶ、その幼さを守りたかった。

 そう強く願った数週間後のある日、帰宅し玄関の扉を開けると普段なら帰っていない父の靴と横に見覚えのない革靴が二足並んでいた。
いつもと違う雰囲気を感じ、足音を立てないようにリビングに近づく。微かに話し声が聞こえた。透明な扉から見える人の中に兄の姿だけがなかった。

『高嶺君が屋上から……』

 兄の通う学校の教師と思われれる人物と、表情を変えない父とは対照に啜り泣く母の顔が目に映る。見てはいけないものを見て、知ってはいけないことを知った。衝動的に兄の通う学校へ向かって走った。
兄の足でも数十分かかる場所へ、時間も考えずに駆けた。校舎の裏側から見える砂利の敷かれた教師用駐車場には赤黒い水溜りができていた。
少し進んだ先には立ち入り禁止のテープが張られていて、そこから先の景色は青いビニールテープで塞がれていた。

「お兄ちゃんのこと、守れなかった」

 立ち尽くす私に女性警察官が声をかける。

「お嬢ちゃん、ここは関係者以外来ちゃダメなんだよ」

 冷たく制止する声に息が止まった。
その日、兄の『ただいま』を聴く事はなかった。帰って無意識のうちに兄の部屋に入る。目に映ったものは使い古されて四隅の破れたノート、それを自部屋へ持ち出し開く。
そこに綴られていたのは二年前からの兄の本音だった。
 些細な日常がそこには鮮明に書き記されていた。入学式のこと、初めて友達ができた日のこと、私にアコースティックギターを弾く夜のこと、その全てが繊細な兄が生きている証だった。
父への想い、母への願い、私への愛情。兄は心から私たち家族を愛していた。
そしてそれと同じくらい音楽を愛していた。

『今耐えている苦行の先に、好きなことで食べていける未来がありますように』

 『好きなこと』その言葉が指すものは、兄が数年前まで続けていた作曲。
『学業に支障をきたす』と取り上げられたコンピューターに音と声を打ち込んでいく、丁寧に繊細に想いを込めていく兄の姿が好きだった。あの時間は本当に兄を守っていた時間、音楽は兄にとっての救いそのものだった。
ページをめくっていくと、封筒が膝の上に落ちた。宛先は『高嶺咲夜』私。

ー*ー*ー*ー*ー

『高嶺 咲夜へ』
 きっと驚いて僕の部屋に来たんじゃないかな、そして僕の机のノートを手に取って全てのページを見てここに辿り着いたんでしょう?
咲夜は本が好きだからね、すぐに読めたんじゃないかな。
僕の本当の気持ちを伝えるのは後にも先にも咲夜だけだと思う。
 まず、咲夜の居場所を身勝手に奪って本当にごめんね。眠るのが怖い夜の、嫌なことがあった日の拠り所を奪ってごめんね、謝らないといけないことが多いけど、それ以上に伝えたいことで溢れているから最期に全部書き遺していくね。
 ひとつ、咲夜にギターを聴いてもらう時間が僕は大好きだったよ。
もう二度と弾いてあげることはできないけれど、今でも変わらず大好きだよ。咲夜の表情が緩んでいくと同時にゆっくりと左右にリズムを感じる咲夜が可愛くて、見ているだけで幸せになれた。
昨日まで一緒にいられたのも、きっと咲夜のおかげだね。
 ふたつ、これはお父さんとお母さんのことについて。
咲夜も心配していたけれど、お母さんは今すごく頑張ってるんだ。病気が悪化して大変な中しっかり生きようとしてる。だから『もう頑張れない』って言われた時には、咲夜のできる最大限の笑顔でお母さんを励ましてあげてほしい。
お母さんは必ず大丈夫になるから、信じて待つこと。約束。
 お父さんは陰で苦しんでいることが多いと思う。お母さんを一番近くで支えているのはお父さんで、僕達を育ててくれているのもお父さんの力が大きい。
怒ってばかりの厳しい人に見えるかもしれないけど、すごく優しくて家族想いな素敵な人だから。
どうか離れずに隣にいてあげてね、そして三人で幸せに暮らしてほしい。
いつ僕が見ても、笑顔の絶えない三人でいてほしいんだ。
 最期に、何があってもお兄ちゃんのいるところに来ちゃダメだよ、これは約束。
僕は寂しくないから、お空で幸せに暮らすね。
咲夜は頼りたい人に頼って、その分誰かを支える人になってほしい。
咲夜なら大丈夫。
きっと間違った選択をした時は、その選択を実行する前に踏みとどまらせてくれる人に出逢うから。
脆くていい、強く優しく、咲夜らしく生きていてほしい。
 本当に本当にありがとう。
咲夜のこと、ずっとずっと愛してる。

高嶺 藍斗 より

ー*ー*ー*ー*ー

 兄からの手紙の字は酷く震えていて、ところどころ何かで滲んだ跡があった。
そして『寂しくなったら戻って来れるように』と羅列されて英数字の文字列が記されたメモ紙が同封されていた。検索することもできないまま封をした。

 兄への私の記憶はここで途切れている。
そこから数週間後、父は姿を消し消息を絶った。母の病状は日に日に悪化し、大学病院に引き取られ兄の手紙から二年後の冬、兄と同じ世界へ飛び立った。
『咲夜のこと、ずっとずっと愛してる』
兄と同じ最期の言葉を遺し、息を引き取った。
我儘な私は独りであることを嘆き、兄との約束を破ろうとした。

ー*ー*ー*ー*ー

「……さん?」

「えっ……?」

「高嶺さん……ぼーっ一点を見つめて大丈夫?」

「あ……ちょっと色々思い出して」

 蓋をしていた記憶が蘇った。
いつからか兄の選択を恨んでいた私自身への惨めさが募った。
思い出した、私が『無音』に出逢ったきっかけ。兄の意思を継ぐため、そして家族の愛した音をもう一度甦らせるため。
そして兄の書き遺した『間違った選択を踏みとどまらせてくれる人は』

「早瀬君」

 君だったんだね。やっと出逢えた、ありがとうお兄ちゃん。

「私が『無音』に出逢ったきっかけ聴いてくれるかな、そしてまた私の音を愛してくれるかな」

 柔らかく頷く姿がどこか兄と重なる。
もう一度誰かに愛されながら私を生かすこと、それが兄への最大の恩返し。そしてその音で彼と生きる。ここからの私は惰性で息などしない、もっと『高嶺 咲夜』を『無音』を生きていく。



 
 彼に真実を伝えた朝、全てを目を潤ませながら受け入れる姿が兄と重なり懐かしさに襲われた。
深夜、開けずに閉じたままの紙を手帳から取り出す。

「これ……今考えるとURLだよね」

 兄の手書きの英数字は丁寧で、正確に記載されている。
きっと幼い私が間違えずに検索できるように書いてくれたのだと思う。兄の最後の優しさが込められている。
このリンク先へいくということが、兄の死を私自身が認めてしまうようで怖かった。『ただいま』が聴けていないだけという解釈で納得していたかった。

「でも……」

 逃げ続けてきた事実に向き合うことが、兄を守れなかったことへの償いになるのかもしれない。
丁寧に、恐怖心を砕くように打ち込む。
十数年前に開設されたサイトへのアクセスは少し時間を要した。ただその時間が私の中での覚悟を決め、動悸を鎮める時間としてちょうどよかった。

「開いた……」

 白背景に青文字が浮かんでくる演出が儚く、美しい。十数年前につくられたものとは思えないほどクオリティが高く、現代に出しても違和感がないほどの技術だった。

『……ヨルカイカ?』

 兄のサイト名。背景には透明に近い桜が降り注いでいる。

「ヨルカイカ……夜カイカ、夜開花……」

 不意に思い出す、兄との会話。

ー*ー*ー*ー*ー

 小学校入学一週間前、眠る前兄の部屋での会話。

「ねぇお兄ちゃん」

「どうしたの?咲夜」

「サクヤってどう書くの?」

「咲夜この間お母さんとひらがなのお勉強してたよね?」

「そうじゃなくて、漢字で書きたい!」

 勉強している兄に憧れ『漢字』で自分の名前を書いてみたかった。
それで父と母、そして兄に手紙を書こうと密かに計画していたのだ。

「漢字を知ってるなんて咲夜はお姉さんだね」

 頭を撫でるその手はすごく温かく、柔らかい。
その手でペンを持ち大きく私の名前を書く。

『高嶺 咲夜』

「これが私の漢字……?」

「そうだよ『タカネ』はまだ難しいから『サクヤ』のところを練習してみようか」

 そう言って鉛筆を差し出して膝の上に座らせてくれた。
兄がマーカーで書いた練習用の薄い線を、不慣れな鉛筆でなぞる。書くたびに応援と褒める言葉をくれた。兄の字は優しく、少し丸い。

「咲夜上手だね」

「ありがとう!お兄ちゃん!」

 形だけ覚えた『咲夜』を得意気に書き並べていく。

「この漢字にはどんな意味があるの……?」

 別々に書かれた二文字を指差しながら兄は語りかける。

「この『咲』の字は、お花が綺麗に開くっていう意味があるんだよ」

「お花……?」

「そう!咲夜も幼稚園で見たことあるよね?」

「うん!お花好きだよ!」

 頷く私を見た後に夜を指差す。

「そしてこの『夜』の字は今、太陽が沈んで暗くなった時のこと」

 カーテンを開け、窓の外を指差す。
星が綺麗で、空が澄んでいる、それが夜。

「『咲』と『夜』って何が関係あるの?」

 ノートを置き、真っ直ぐに私の目を見る。

「咲夜、今からお兄ちゃんが言うことをしっかり覚えておいてね」

「……うん」

「夜って外が暗くて見えづらいよね?だから咲夜もお散歩はお昼にするでしょ?」

「そうだね」

「でも夜にも綺麗に咲いている花もあるんだよ」

「そうなの?」

「そう!咲夜が大きくなったら一緒に見に行こうか」

「うん!約束ね」

 微笑みと共に互いの小指を交える。
固く、強く誓う。

「少し話を戻すね」

「うん!」

「だから『咲夜』っていうのは『暗くて見えないところでも強く綺麗に咲いていけるように』って言う意味があるんだよ」

「……なんかちょっと難しいね」

「もう疲れたなぁとか心が元気になれないなぁって思っても生きていてほしいっていう願いが込められているんだと思うよ」

「……そうなんだ」

「今はまだ難しいかもしれないけど、咲夜ならきっといつかわかると思うよ」

「夜に咲く花……」

「そう、今はそこだけ覚えていてくれれば嬉しいな。また咲夜が大きくなって知りたくなったらお母さんとかお父さんに聴いてみるといいよ」

ー*ー*ー*ー*ー

 『ヨルカイカ』は私の名前を指していた。
この名前に込められた意味。暗く諦めそうな状況になったとしても、めげずに生きること。強く、綺麗にそこに在り続けること。
当時取りこぼした本当の意味を尋ねる相手はもう一人もいないけれど、きっと兄の語ったことが全てだと思う。

「ありがとう……お兄ちゃん」

 目を背けてきたそこには、兄が遺した愛で溢れていた。
私が『無音』という名前を被った理由。それは兄の部屋に走る沈黙からきたものだった。聞こえてくるはずのアコースティックギターの音も、歌声も全てがなくなった無の空間。
それを嘆くように生まれたのが『無音』
私との想い出を噛み締めるように紡がれた『ヨルカイカ』
私は兄の分まで音を紡ぎ、生きていきたい。

 濡れた頬を拭ってくれる人はもういない、そんな音も無い。
だから今度は私が、誰かの頬を拭い柔らかく撫でる音になる。
愛を込めて、今貴方に誓う。