彼に真実を伝えた朝、全てを目を潤ませながら受け入れる姿が兄と重なり懐かしさに襲われた。
深夜、開けずに閉じたままの紙を手帳から取り出す。

「これ……今考えるとURLだよね」

 兄の手書きの英数字は丁寧で、正確に記載されている。
きっと幼い私が間違えずに検索できるように書いてくれたのだと思う。兄の最後の優しさが込められている。
このリンク先へいくということが、兄の死を私自身が認めてしまうようで怖かった。『ただいま』が聴けていないだけという解釈で納得していたかった。

「でも……」

 逃げ続けてきた事実に向き合うことが、兄を守れなかったことへの償いになるのかもしれない。
丁寧に、恐怖心を砕くように打ち込む。
十数年前に開設されたサイトへのアクセスは少し時間を要した。ただその時間が私の中での覚悟を決め、動悸を鎮める時間としてちょうどよかった。

「開いた……」

 白背景に青文字が浮かんでくる演出が儚く、美しい。十数年前につくられたものとは思えないほどクオリティが高く、現代に出しても違和感がないほどの技術だった。

『……ヨルカイカ?』

 兄のサイト名。背景には透明に近い桜が降り注いでいる。

「ヨルカイカ……夜カイカ、夜開花……」

 不意に思い出す、兄との会話。

ー*ー*ー*ー*ー

 小学校入学一週間前、眠る前兄の部屋での会話。

「ねぇお兄ちゃん」

「どうしたの?咲夜」

「サクヤってどう書くの?」

「咲夜この間お母さんとひらがなのお勉強してたよね?」

「そうじゃなくて、漢字で書きたい!」

 勉強している兄に憧れ『漢字』で自分の名前を書いてみたかった。
それで父と母、そして兄に手紙を書こうと密かに計画していたのだ。

「漢字を知ってるなんて咲夜はお姉さんだね」

 頭を撫でるその手はすごく温かく、柔らかい。
その手でペンを持ち大きく私の名前を書く。

『高嶺 咲夜』

「これが私の漢字……?」

「そうだよ『タカネ』はまだ難しいから『サクヤ』のところを練習してみようか」

 そう言って鉛筆を差し出して膝の上に座らせてくれた。
兄がマーカーで書いた練習用の薄い線を、不慣れな鉛筆でなぞる。書くたびに応援と褒める言葉をくれた。兄の字は優しく、少し丸い。

「咲夜上手だね」

「ありがとう!お兄ちゃん!」

 形だけ覚えた『咲夜』を得意気に書き並べていく。

「この漢字にはどんな意味があるの……?」

 別々に書かれた二文字を指差しながら兄は語りかける。

「この『咲』の字は、お花が綺麗に開くっていう意味があるんだよ」

「お花……?」

「そう!咲夜も幼稚園で見たことあるよね?」

「うん!お花好きだよ!」

 頷く私を見た後に夜を指差す。

「そしてこの『夜』の字は今、太陽が沈んで暗くなった時のこと」

 カーテンを開け、窓の外を指差す。
星が綺麗で、空が澄んでいる、それが夜。

「『咲』と『夜』って何が関係あるの?」

 ノートを置き、真っ直ぐに私の目を見る。

「咲夜、今からお兄ちゃんが言うことをしっかり覚えておいてね」

「……うん」

「夜って外が暗くて見えづらいよね?だから咲夜もお散歩はお昼にするでしょ?」

「そうだね」

「でも夜にも綺麗に咲いている花もあるんだよ」

「そうなの?」

「そう!咲夜が大きくなったら一緒に見に行こうか」

「うん!約束ね」

 微笑みと共に互いの小指を交える。
固く、強く誓う。

「少し話を戻すね」

「うん!」

「だから『咲夜』っていうのは『暗くて見えないところでも強く綺麗に咲いていけるように』って言う意味があるんだよ」

「……なんかちょっと難しいね」

「もう疲れたなぁとか心が元気になれないなぁって思っても生きていてほしいっていう願いが込められているんだと思うよ」

「……そうなんだ」

「今はまだ難しいかもしれないけど、咲夜ならきっといつかわかると思うよ」

「夜に咲く花……」

「そう、今はそこだけ覚えていてくれれば嬉しいな。また咲夜が大きくなって知りたくなったらお母さんとかお父さんに聴いてみるといいよ」

ー*ー*ー*ー*ー

 『ヨルカイカ』は私の名前を指していた。
この名前に込められた意味。暗く諦めそうな状況になったとしても、めげずに生きること。強く、綺麗にそこに在り続けること。
当時取りこぼした本当の意味を尋ねる相手はもう一人もいないけれど、きっと兄の語ったことが全てだと思う。

「ありがとう……お兄ちゃん」

 目を背けてきたそこには、兄が遺した愛で溢れていた。
私が『無音』という名前を被った理由。それは兄の部屋に走る沈黙からきたものだった。聞こえてくるはずのアコースティックギターの音も、歌声も全てがなくなった無の空間。
それを嘆くように生まれたのが『無音』
私との想い出を噛み締めるように紡がれた『ヨルカイカ』
私は兄の分まで音を紡ぎ、生きていきたい。

 濡れた頬を拭ってくれる人はもういない、そんな音も無い。
だから今度は私が、誰かの頬を拭い柔らかく撫でる音になる。
愛を込めて、今貴方に誓う。