三


文化祭の当日、まだ日が昇って間もない頃に俺は早くも家を出た。

事前準備のこともあれば、修理したとはいえ銀杏のハリボテも心配だった。おちおち二度寝に落ちてもいられない。普段の土曜日では考えられないほどすんなり目が覚めて、朝餉の用意は親父や弟が起き出してくる前に済んだほど。

浅い陽を浴びつつ、しじまの通学路を行く。快晴だった、吹き抜ける秋風も優しく肌を撫でる。まさに祭り日和だった。

いい気分のまま、校門を抜ける。まず職員室に鍵をもらいにいって、思いがけず先を越されていたことを知った。この早い時間に誰だろうか、別棟に行く道すがら疑問に思っていたら、教室内は想像より遥かに賑やかだった。
クラスメイトの数人が既にいて、椅子を固めて歓談をしている。面食らって扉のへりに立ったままいると、

「早いって顔に書いてあるぞ、今宮」

その一人、野球部の若林がにかっと精悍に笑って言った。

「その通りだ。正直驚いた」

近くの席を引っ張ってきて、彼らに加わる。

「普段、部活の朝練もこの時間だからさー。習慣でな」
「そうか運動部には当たり前か、考えてなかったよ」
「おうよ、朝飯前だ。なんて、本当は楽しみで早く目が覚めただけ、こんな日くらい寝てようと思ってた」

若林は恥ずかしそうに坊主頭をかく。その太ましい腕の脇から、同じ野球部の仁科が顔をのぞかせた。
若林の頭に手を乗せて

「こいつ、余興も出るんだぜ。それで張り切ってんの。ロングのカツラ被って、ギター演奏。普段、数ミリカットなのに似合うわけがない」
「それはほら、やっぱり振り回す髪はほしいじゃねぇか」
「バンドマンのイメージに捉われすぎだろ、お前」

そのやり取りに笑っていると、若林は非難めいた目を俺に向ける。

「考えたら、劇でもカツラなんだよ、どこぞの副委員長の配役のせいで」
「ははっ、俺かよ。ごめんごめん、一日だけ脱坊主で頼むよ」
「その言い方だと俺が出家してるみたいじゃん。還俗するわけじゃねぇよ?」

話の裏、仁科がその二種類のウィッグを引っ張り出してくる。外の空気とは反対、暑苦しい被せあいに、俺も巻き込まれた。その間にも続々と人が集まってくる。他クラスの詰める別教室も、早い時間から騒がしくなっていった。

なにも俺だけ、委員だけじゃない。文化祭は、他の誰かにとっても一度きりの催事だ。当然のことに気づかされた。

銀杏の木は無事だった。変化に気づいたクラスメイトに事情を説明していると、ちょうど栗原さんがくる。

「安心した、私も実は心配だったの」

昨日のことが思い起こされて、短い鼓動が胸を駆けた。

校門前での準備は、青木が五分遅刻したほかは、スケジュール通りにいった。終わって、体育館で開会式に臨む。

劇があるのは午後、とはいえ緊張が走って、息が詰まった。

午前中は、はると文化祭を回る約束があったが、まだ時間があった。定石なら劇の練習に当てるところ、山田に連れられてグラウンドや校内に巡らされた出店を回る。彼いわく、事前に構えすぎると本番でこけるらしい。

「いやぁかなり買ったなぁ。伏見来る前になにも食えなくなりそう」

もっとも、幾つもビニール袋を提げているあたり、楽しみたいだけの言い訳だろうけれど。ただ、俺にもその気持ちがないわけではないかったから適度な範囲で付き合う。

「食いすぎて本番で吐くなよ」
「最悪、最初のシーンならいいんじゃね? 成人式ってお酒飲むだろ」
「吐くまで飲まされる設定にはしてない」

山田は愉快そうに笑い飛ばして、買ったばかりの唐揚げを口にする。もう匂いだけで、少し胃がもたれた。腹をさすっていると、

「調子よさそうじゃん、郁人」
「どこをどういう風に評価した見立てだよ」
「昨日はどうも辛気臭かったんだけど、今日はそうでもないから。なにかいいことでもあった?」

食うか、と楊枝に刺した唐揚げが突き出されるのを遠慮する。

山田は、はっきりではなくとも俺の様子に気づいていたらしかった。意表を突かれつつも、首を横に振る。

「とくにないよ」

昨日の出来事が、「いいこと」に当たるかは分からない。ただ、縺れた糸がほどけて物ごと消えてしまったよう、命題の答えを明かしたわけではないのに、頭の中は整理がついていた。

そこでふと、気になることが一つ生まれた。

「なぁ、山田はなにかやけ食いするようなことでもあったわけ?」

山田の爪楊枝を刺す手がはたと止まる。それ聞く? と、横目に俺を見てから、彼は唐揚げを口へ放り込んだ。しばらく咀嚼するのを待っていると、

「さっき栗原にもう一回告白したんだ」

よもやの話が出てきた。俺は思わず立ち止まって、大きく開いてしまった目を、故意にしばたかせる。