「正直、形なんぞどうでもいいんだがな。ただ、そばにいてほしい。絃がいてくれさえすれば、俺はこれからも生きてゆけるし、幸せだから」

 以前も告げられた想いに、絃はきゅっと唇を引き結ぶ。

「想う時間が増えれば増えるほど、俺のなかで絃の存在は大きくなっていった。よもや引き返せないところにいる。だから、先に謝らせてくれ。すまない」

「ど、どうして謝る必要が……?」

「手放してやれないからだ。なにより大切で仕方がない君が妻になって、いつでも手が届くようになってしまったら……おそらく俺は自制が利かなくなる」

 どこか熱をはらんだ瑠璃の瞳のなかに、戸惑う自分が映っていた。
 早鐘のように鳴る鼓動の音が全身に波打つように広がって、士琉の声以外の音が聞こえなくなってしまう。

「──愛している。どれだけ言葉を尽くそうと足りないくらいに、君を」

 まるで殴られたのかと思うほど、真っ直ぐに想いをぶつけられる。
 合わさっていた部分がずれ、頬、瞼を辿り、やがて額に慈しむような優しい口づけが捧げられた。首から上を真っ赤に染めた絃は、いよいよ恥じらいの頂点を迎え、首を竦めながら俯く。
 その反応に薄く笑った士琉は、絃を腕に抱えておもむろに立ち上がった。

「絃にそのままの気持ちを返してほしいとは言わない。だが俺は、もう君がそばにいない生活なんて考えられないし、考えたくないんだ。わがままだと(ののし)ってくれていいから、俺の想いは知っておいてほしい」

「し、士琉さまはやっぱり、ずるいです。困るとわかって仰っているでしょう?」

「知らなかったか? 俺は存外、悪い男だぞ」

 いたずらな言葉とは裏腹に、士琉は表情を和らげた。

(たとえ士琉さまが本当に悪い男でも……わたしは、きっと惹かれてしまう)

 淡い光に縁取られる容貌はこんなときでも美しくて、思わず目が奪われる。
 たまゆらに交錯していた思いが溶け合い、ひとつになっていくような気がした。
 だがそのとき、ふいに絃は士琉の背後に広がる空の違和感に気づいた。

「え……!?」

「どうした?」

 一度は見間違いかと己の目を疑ったが、何度ぱちぱちと瞬きをしてもそれは変わらない。むしろそのあいだにも、その暗雲は広がっていく。

「士琉さま、煙が……っ」

 こんな森の奥地でも視界に入るくらい、空高く。
 星の瞬きが掠れる夜闇の下で、ただならぬ黒い煙が立ちのぼっていた。空の色と同化していたせいで気づくのが遅れたが、方向的には間違いなく月華の方角である。
 絃の指さす方を振り返った士琉は、途端に甘さをかき消し、両目を眇めた。

「火事か……!」

 刹那のあいだに空気が張り詰める。
 気のせいか、その場の千桔梗の光すら明度を落としたように感じられた。全身がぞっと粟立つのを感じながら、絃は不安を向ける。

「ま、また例の憑魔でしょうか?」

「わからんが、とにかく戻らねば。すまない、本当はもう少しゆっくりしていきたかったんだが」

「わたしのことは大丈夫ですから、早く行きましょう……!」

 士琉は頷くや否や、絃を抱えたまま駆け出した。

「悪いが、少し飛ばすぞ。しっかり掴まっていてくれ」

「はいっ」

 風を斬り裂くように森を突っ切る。強く地面を踏みしめ飛び上がった士琉は、枝から枝へと足場を変えながら凄まじい速さで月華へ舞い戻っていた。

(なにかしら、すごく、嫌な感じ……っ)

 言葉にならないよからぬ予感が、胸中をいっぱいに支配していた。

 ──どうかこの予感が当たりませんように。

 そう祈りながら、絃は必死に士琉の身体に抱きついたのだった。