それでも、と桂樹は士琉へ滑るように視線を移しながら言い募った。
「変わらぬ想いというのも、確かにある」
ぴくり、と絃を抱きしめる士琉の力がわずかに強くなった気がした。桂樹はそれに気づいているのかいないのか、ふっと穏やかに笑いながら続ける。
「私はそれを間近で見ていたゆえ、賭けてみたくなったんだ。その一途な想いがどんな奇跡を起こすのか。──私もかつて、想った相手がいたからな」
「想った相手……ですか?」
そういえば、と絃はどこかで耳にした話を思い出す。
冷泉家の当主には、若かりし頃、琴瑟であると有名な妻がいたのだと。
「つらいとき、悲しいとき、苦しいとき、幸せなとき……どんなときもそばで心を分かち合った存在。私が生涯で愛した唯一だ。対抗したくもなるだろう?」
含みのある言い方で士琉へ挑戦的な目を向けた桂樹に、士琉はなんとも苦々しい顔をこしらえて「この父は……」と低く唸った。
「いいかい、絃さん。──恐れはなにか大切なものがある人間にしか生まれない。だから、きっと絃さんにはたくさんの大切があるんだろう。だがね、絃さんを大切に想う者たちも同じように恐れを抱いているということを忘れてはいけないよ」
「…………っ」
返す言葉を失った絃の手を、士琉が上から包み込んだ。
俺がいる、と。
そう言われているような気がして、絃もとっさに士琉の手を握り返す。
「君が傷つくことで、涙を流すほど悲しむ人間がいる。君を傷つけた者に、底知れぬ怒りを抱く人間がいる。君を傷つけてしまったことで、恐れを抱く人間がいる。そのことさえ忘れなければ、絃さんはきっと、大丈夫だ」
──大丈夫、だなんて、空気のように曖昧で不確かな言葉だ。けれど、桂樹の言葉は不思議と胸の奥深くまで沁み入り、気づけば絃はふたたび涙を流していた。
絃よりも哀し気な面差しの士琉に抱きしめられながら、思う。
ああ、愛されている、と。
愛さないでほしいと願ったいつかの自分が、そっと耳元で囁いた。
あなたは愛さなくていいの? と。
◇
「絃、これから少し外に出てもいいか」
桂樹の部屋を出たところで、士琉はおもむろにそう切り出した。
思いのほか長い時間を桂樹の部屋で過ごしてしまったせいで、すでにだいぶ夜は深い。まさかこの時間から出かけたいと誘われるとは思わず、絃はたいそう困惑する。
「今日は十五夜──満月だからな。行きたいところがあるんだ」
「あの、でも、いくら護符を貼っていても夜は危険です。ただでさえ妖魔が発生しやすい時間に餌をまくようなことは、さすがに……」
涙こそ収まったものの、心にぽっかりとあいた穴は埋まったわけではない。
むしろ、お鈴の件があったからこそ、絃は自分の体質をより恐ろしく感じていた。
トメ、そしてお鈴。
単なる偶然かもしれないが、絃のそばにいる者たちが憑魔の犠牲になった。
妖魔を引き寄せる体質が、憑魔相手ではどのように作用しているかはわからないけれど、その偶然を軽視するほど、絃は自分を信じていないのだ。
「俺も『夜が怖い』という君に無理強いしたくはないんだが……どうしても、見てもらいたいものがある。それは夜でなければ見られないものでな」
「夜でなければ、ですか?」
「ああ。もちろん妖魔の懸念はある。絃の体質を考慮せずとも、夜の刻はあちこちで湧くからな。遭遇しない方が難しいだろう」
だが、と士琉はまるで誓いを立てるような眼差しで絃を射抜いた。
「君には、傷ひとつつけさせやしない。俺が必ず護るゆえ、どうか頼む」