ところどころ、掠れた声が(おぼろ)げな星影に交ざり落ちる。

 そのまま踵を返し、お鈴は絃から逃げるように走り去った。

 暗晦(あんかい)のなかに溶け消えるその小さな背中を、絃はただ麻痺したように身動きが取れないまま、呆然と見送ることしかできなかった。



(お鈴に、初めて拒絶された……)

 冷泉本家をとぼとぼと当てもなく彷徨う。もはや自分がどこを歩いているのかなどわからない。いや、行く先も戻る道も今の絃にはどうでもいいことだった。
 頭のなかで、幾度も繰り返しお鈴の言葉が再生されている。そのたびに心が少しずつ欠けていくようなのに、感情は、心は、まだ追いついていない。
 そうしてどれほど歩いたのか、ふいに声が聞こえて絃は立ち止まる。おずおずとそちらの方を見てみれば、いつの間にか知っている廊下に立っていた。

(ここ、最初に冷泉本家に来たときと同じ道……。桂樹さまのお部屋……?)

 ぼんやりと思い出し、声の方へ歩く。
 どうしてかと言われてもわからない。ただ、わずかに聞こえてくる声に引き寄せられるかのように、身体が勝手にそちらへと動いていた。

「……でしょう? 父上のお身体のことも──」

 戸の前に立てば、さすがに声の質がはっきりした。
 それが士琉のものだとわかった刹那、届いていた声がぴたりと止む。どうやら、他者の存在に気がついたのは絃だけではなかったらしい。

「誰だ」

 突き刺すように飛んできたのは、端的な鋭い言。普段の士琉からは想像もつかないほど低く怜悧な声音で誰何(すいか)され、絃はしばし硬直した。
 相手が士琉だとわかっていてもなお湧き上がる恐怖に怖じ気づくと、なにも返事がないことに痺れを切らしたのだろう。室内からこちらへ歩いてくる気配があった。
 逃げることも動くこともできずにいれば、目の前でぴしゃんと戸が開く。
 一瞬、全身に凍りつきそうなほど冷徹な視線を感じた。
 けれどそれは、首を竦めて怯えながら見上げた絃の視線と絡み合った瞬間、呆気なく霧散する。

「絃……!?」

 まさか絃だとは思っていなかったのか、士琉は途端に狼狽えた。

「なぜここに……護符を貼ってきたのか?」

「し、りゅうさま」

 かろうじて声を絞り出したのと同時、絃の頬に一筋の涙が流れ落ちた。

(あ……)

 瞬く間に視界が歪んだ。次々に流れ出した涙は頬の曲線を伝い、顎から落ちる。

「どうした、なにがあった」

 士琉は泣き出した絃に焦った様子を見せながらも、絃を抱き寄せる。
 とん、と彼の硬い胸板に額が当たった瞬間、それまで追いついていなかった感情が溢れんばかりに胸を支配した。
 悲しい、淋しい、虚しい、苦しい、つらい。そんな言葉では到底表しきれないほどに、絃の心は滂沱(ぼうだ)の涙と共に悲痛な叫びを訴え出す。

「士琉、さま……っ」

「……どこか痛む、というわけではないな?」

 絃の様子に、なにかを悟ったのだろう。強張った顔で慎重に尋ねてきた彼に、しゃくり上げながら頷いて返す。
 痛いけれど、それは身体ではなく心だったから。
 すると、部屋のなかから「士琉」と掠れた声が届いた。振り返った士琉の腕のなかで顔を上げてみれば、褥で半身を起こしながら、桂樹が手招いていた。

「そのような場所に立っていないで入りなさい。私のことは気にせずともいい」

「しかし……」

「いいから。絃さん、こちらへおいで」

 呼びかけられ、絃は戸惑いながら士琉を見上げる。決して声を荒らげているわけではないが、その物言いには、当主らしい有無も言わさぬ圧があった。