だって手放せないから。恋慕が彼女を乞うから。欲が、生まれてしまったから。

 同情はもはやない。これは士琉のわがままだ。わかっている。
 だけれど。ときおり、記憶が問う。
 無慈悲にも、問う。

 ──それはあまりに、卑怯ではないのかと。



 目覚めた瞬間、絃を真上から覗き込む顔と間近で目が合った。あまりに驚いて悲鳴も喉の奥へと引っ込み、呼吸まで止めてしまいながら両目を瞬かせる。

「姉上……っ! やっと起きた!」

「と、うや? え? わたし、まだ夢を……」

「なに言ってんの、姉上。夢じゃないよ。ここは現だし、僕は確かに燈矢だよ」

 そうは言われても、と絃はさらに混乱する。
 意識を失う前の記憶と現在が、まったく結びつかない。
 ここは月華。絃はもう月代家から離れたはずだ。だというのに、離れにいた頃もよくあった状況にふたたび見舞われるとはどうしたことか。

「燈矢。そんな真上から見下ろされたら、寝起きの人間は誰でも混乱するよ」

 呆れまじりに燈矢を背後から抱えたのは弓彦だ。
 燈矢どころか弓彦までいるなんて。やはりこれは、夢だろうか。

「兄上! 僕はもう十五です! 子どもじゃないんですからやめてください!」

「でも、そう成長してないよね。いつまでも私の方が大きい」

「父上に似た兄上と、母上に似た僕を比べられても困ります! それでもまだこれから成長する予定なんですから!」

 弓彦と燈矢は昔から変わらぬやり取りをしながら、絃が眠る褥の横へ座した。
 身体を起こし、周囲の状況を見て驚く。
 絃が眠っていた褥を囲むように、呪符がびっしりと貼られていたのだ。見たところ、士琉の屋敷に貼ってあるものと同じものらしい。
 どうやらここに、極めて小範囲な結界が成立しているようだった。
 その外側に窺える室内の様相には見覚えがない。室内の広さと天井の高さからして、少なくとも月代の離れや士琉の屋敷ではないようだが──。

「兄さま、燈矢……これはいったい」

「絃は鳴弦で霊力を流しすぎて意識を失ったんだよ。丸一日以上は眠っていたから霊力もだいぶ回復していると思うけど、体調はどうだい?」

「体調……問題、ありません。少し気怠いような感覚はありますけれど」

 自分がそんなに長い時間眠っていたことに愕然とした。
 普段あまり眠ることができないからこそ新鮮な、寝起きの感覚。

(士琉さまがお部屋にいらっしゃって、いつの間にか眠ってしまったあの日以来ね……。あのときは、不思議と朝まで眠れたから驚いたのだけど)

 もしかすると、あの日より頭がすっきりしているかもしれなかった。
 それほど深く眠っていたなんて、やはり信じられない。

「長らく放出していなかったものを急に酷使したからね。もう数日はゆっくり休んでいなさい。ああ、ちなみにここは冷泉の本家だから、心配はいらないよ」

「冷泉の、本家? だとして、兄さまと燈矢はどうしてこちらに?」

「そりゃあ、大切な絃の一大事に駆けつけないわけにはいかないからねえ」

 弓彦は相変わらずのんびりとした口調で答えた。対してその横に座した燈矢は、いまだに不貞腐れたような顔をしながら俯いている。

「えっと、燈矢も来てくれたの?」

「は? 来るに決まってるでしょ。なんなら、兄上より早く来たし」

「私を置いてきぼりにしてぶっ飛ばしたからねえ、燈矢」

 不満を溢れさせた燈矢は「遅いんですよ、兄上は!」と弓彦を横目で睨む。それから勢いよく顔を上げて、服装が乱れるのも構わず、絃の方へ身を乗り出してきた。

「姉上、もう帰ろう」

「へ?」