揃いの矢も矢筒もない、弓本体だけ。なにに使うのかと疑問に思ってはいたが、まさかあの場で使用するとは誰も思うまい。それも、ただ弦を引いただけで人に憑いた憑魔を祓ってみせるなど、自分の目で見ていなければきっと信じられなかった。
「──〝鳴弦〟というんだよ、あれは」
弓彦は立ち上がると、弓を持ち、弦を引くような動作をしてみせる。
「矢をつがえずに弦を引いて魔を祓う。古くから伝わる破魔の儀式の応用祓術さ」
「弦を引くだけで魔を祓えるのか?」
「普通の人間がそれをしたところで、なにも効果はないよ。鳴弦を行えるのは霊力を宿した人間のみだ。ただしその力の効果は使い手の霊力量に比例するから、たとえ霊力をその身に宿していても、絃と同じことができるかと言えば否だけれどね」
ちら、と弓彦は部屋の隅へ目を向ける。
釣られて視線を動かせば、そこには弓彦の荷物であろうものが纏められていた。とりわけ目につくのは、弓彦の半身ほどはありそうな特殊な形態の布袋だろうか。
「あの袋のなかには、私の弓が入っているんだよ」
「弓ぼ……ではなく、弓彦も鳴弦を?」
「なにも私だけじゃないよ。うちは祓魔師の家系だし、月代の人間はみな、大なり小なり霊力を持ってるんだ。だからこそ、己の武器として自分の体形に合った弓を作る風習がある。現役の祓魔師は祓札と併用して使用するし、祓魔師ではなくともお守りとして持っている場合が多いかな。──あと、茜さん。次に坊って言いかけたら、月代は氣仙を敵だと認識するからそのつもりで」
にこやかに脅迫した弓彦に、茜はひょいっと肩を竦めてみせる。
悪びれないあたり凝りもせず呼び続けるな、と傍から見ていた士琉は苦々しい気持ちになった。ちなみにこのやり取りは毎度のことだ。
「ねえ、ちょっといい? さっきから気になってたんだけど……つまり、弓彦さんや燈矢くんより、絃ちゃんの方が強い霊力を持ってるってこと?」
千隼が困惑を滲ませた表情で尋ねると、弓彦はあっさりと同意を示した。
「こと霊力においては、総量も質も強さも、絃より上に立つ者はいないからね。それ自体は生まれたときからわかってたよ」
さらりと返された言葉に、さしもの士琉も絶句せざるを得ない。
「ん? 士琉殿は見たことあるよね? 絃の霊力」
「いや……確かに千桔梗の悪夢で見てはいるが、それほどとは」
「まあ、これまで使う機会はなかったし、あんまり知られてはいないけどね」
きっとあえて隠していたくせに、と士琉は内心毒づいた。
「鳴弦は、端的に言うと〝霊力を矢に見立てて放つ祓術〟だ。膨大な霊力を一点に集中させているぶん、より強い破魔の力を持つ。そのうえ、弦を弾く音で余分な力を分散させているから、副作用的に周囲の陰の気まで祓えてしまうんだよね。ようするに、大した霊力を保有しない者が安易にこれをやると、力の使いすぎで死にかける」
「なにそれ、こわっ。絃ちゃんは大丈夫だったんです?」
「いや、今回倒れたのはそういうことだよ。察するに、力の使い具合を誤って身体に負担がかかったんだろうね」
弓彦は苦笑しながら言って、しかしすぐ瞳に憂いを交ざらせる。
「まあ、あの子の霊力の保有量は常軌を逸しているから、一晩でも眠ればすぐに回復するだろうけれど」
普段なにを考えているのかわからない弓彦にしては、人間味のある表情だ。だがそれは月代の当主としてではなく、絃の兄としての顔なのだろう。
だが、どこか後ろめたさを感じるのが気にかかる。