絃とお鈴は、ほぼ同時に足を止めて振り返る。
地面へ視線を落とせば、後ろに愛らしい子猫がついてきていた。
両足を綺麗に揃え、ちょこんとお行儀よくその場に座った子猫は、青みを帯びたつぶらな瞳でこちらを見上げてくる。
「子猫……? すごく小さい」
「ですねえ」
絃の掌中に収まってしまうほどの大きさだ。先の尖った耳から顔の半分にかけて綺麗なハチワレ模様になっており、手足の白い部分を除けば体毛はほぼ黒い。
子猫はじっと食い入るように絃を見つめながら、ふたたび「にゃあん」と鳴く。
「どうしたの? ひとり?」
「にゃあん」
「お腹が空いてるのかしら……」
なにかを訴えられているように感じて、絃はその場にしゃがみ、子猫にそっと手を伸ばす。子猫はしばしその手を見つめたあと、腰を上げゆっくりと近づいてきた。
──そして。
バチッ!
「っ、!?」
「ぅにゃっ!」
指先が子猫の鼻先に触れた瞬間、なにやら強い静電気のような衝撃が走った。
悲痛な鳴き声を上げた子猫が弾かれたように飛び、その場に倒れ込む。
同時に、全身が総毛立つようなおぞましいことが起きた。
倒れた子猫の陰から、おたまじゃくしに似た奇妙な物体が這い出てきたのだ。深淵を丸めて作られたような漆黒の塊は、まさに妖魔の特徴に等しい。だが、この既視感のある現れ方からして、これは妖魔ではなく憑魔の方だろう。
「お嬢さま!」
異変に気がついたお鈴が、絃の前に立ち塞がったのもつかの間。ずるずると地面を這っていたソレは、あろうことか、お鈴の陰のなかに勢いよく飛び込んだ。
その瞬間、お鈴の顔からごっそりと表情が削ぎ落ちる。両腕がだらんと不可思議な動きで地に向かって垂れ落ち、瞳から完全に生気が消え失せた。
「お、すず?」
しゃがみ込んだ状態のまま、震えた声でお鈴を呼ぶ。だが、お鈴は答えない。
それどころか、絃に向かって異様に鋭い爪を振り下ろしてきた。
「ひっ……!」
間一髪、絃は横に転がって避ける。
(な、に)
面を上げて戦慄した。たった今、自分へ振り下ろされた鋭利な爪は、あろうことか硬い石畳を容易に砕き割り、その根元まで食い込んでいたのだ。
思わずひゅっと息を詰まらせながらも、絃はなんとか立ち上がった。
(風狸の爪……!? どうしてお鈴がわたしを攻撃してくるの!?)
わけがわからない。思考がついていかない。けれど、とにかく絃に向かって継叉の力を奮うお鈴が通常の状態ではないことだけは確かだ。
「お鈴! お鈴、どうしたの!」
いつもの彼女なら、絶対に絃の声に反応するはずだった。
だが虚ろな目をしたお鈴は、ぴくりとも表情を動かさない。それどころか、あきらかに攻撃的な意志を持ったつむじ風を、周囲に起こし始めていた。
「お鈴……っ」
その矛先がやはり自分に向けられていることに愕然としながらも、絃は焦燥に駆られて周囲を見回す。
(やっぱり憑魔のせい……っ? お鈴は操られているってこと? じゃあもしかして、さっきの子猫も乗っ取られてた?)
さきほどの子猫は地面に横たわったまま、まったく動く気配がない。まさか死んでしまったのかと血の気が引く思いで駆け寄り、両手で掬い上げて胸に抱く。
「っ、息はしてる……」
意識はないようだが、子猫の体は温かった。規則正しく呼吸もしているし、おそらく気絶してしまっているだけだろう。以前遭遇したトメと同じ状態なら、きっとそのうち目覚めるはずだ。否、そう信じたい。