士琉の声に()てられ、茫然と立ち尽くしていた絃は、いつの間にか背後に立っていたお鈴に飛び上がりそうになる。

「お嬢さまは本当にお優しすぎて、お鈴は心配ですよ。今のはむしろ怒ってもいいところだったのに」

「怒るだなんて、そんな……」

「もっとわがままになっていいんですよ、お嬢さまは」

 お鈴は『仕方ない人ですねえ』と言わんばかりの困り顔でため息を吐く。
 この様子だと、最初からすべて見ていたようだ。

「まあいいです。お鈴も上の空な旦那さまに天誅を下しかけていたので、すっきりしましたし。こちらはこちらで、引き続きお買い物を楽しみましょう!」

 問答無用とばかりに絃の手を取って、お鈴は満面の笑みを咲かせた。あまりに嬉しそうな破顔ぶりに、なんとも毒気を抜かれた気分になる。

(お鈴が一緒に来てくれて、本当によかった)

 ようやく心臓の高鳴りを落ち着けた絃は、ほんの少しだけ胸中を支配した淋しさを呑み込んで「そうね」と笑い返した。



 中通りの店をひと通り回り終え、お鈴に連れられて人生初の食事処で昼食を済ませたあと、絃たちはふたたび南の小通りへ。女子ふたりで横に並び、さきほど歩いてきた道を辿るよう戻りながら、のんびりと屋敷を目指す。

「旦那さま、遅いですねえ」

「火事って大きな規模だったのかしら……。怪我人が出ていなければいいけど」

「そうですね。でも、お鈴は今日お嬢さまをこれ以上ないくらいにひとりじめできたので満足です。もう心から幸せいっぱいな一日でしたっ」

 あと二時間ほどもすれば、西の空に太陽が沈み、日が暮れ始める。
 絃の体質を考えたら、ここでいつ戻るかわからない士琉を待つのは危険だろう。

(わたしも、今日は幸せだったわ)

 初めて外で自由に買い物をした日──きっと一生忘れられない日。
 今日は絃にとって、間違いなく特別な日になった。

(お団子を食べたのも初めて。ううん、お店で食事をすること自体初めてね。士琉さまの知らないこともたくさん知れたし、お鈴の楽しそうな姿も見られた)

 言葉にならないくらい、胸がいっぱいだった。これまで結界の外に恐怖しか芽生えなかった絃にとっては、今日だけで世界が一変したといってもいい。

(士琉さまと月華を回れなかったのは残念だけど……。きっと、これからも機会はあるわよね)

 ここが妖魔境に囲まれた千桔梗ではないからこそだろうが、この身体に貼った護符のおかげで何事もなく一日を過ごすことができた。
 少なくとも妖魔が湧きにくい昼間の時間帯ならば、こうして外出しても問題はないということなのだろう。
 それがわかっただけでも、絃としては限りなく大きな収穫だった。
 これから先、この月華で生きていくための見通しが立ったのだから。

「お鈴の笑顔は、本当に素敵よね」

「へっ? 急にどうしたんですか?」

「急にじゃないの。いつも思ってることだけれど、今日はとくにたくさんお鈴の笑った顔を見られたから、改めて伝えたくて」

 きょとんとしていたお鈴は、どこか照れくさそうに頬をかく。

「えへへへ、お嬢さまったら。お鈴を喜ばせるのがお上手ですねえ」

「そんなこと言って、お鈴はわたしが褒めたらなんでも喜んでくれるじゃない」

「そりゃあ、そうですよ」

 ほろり、と、絃とお鈴のあいだに流れる空気が柔く綻んだ。

「お嬢さまはお鈴のすべて。お鈴はお嬢さまのために生きてますから。お嬢さまのお言葉ひとつで、お鈴は──」

 胸に沁み渡るような声音でお鈴がなにかを言いかけた、そのときだった。

「にゃあん」

 にわかに、背後から響いた猫の鳴き声。