「あの日、絃が屋敷の外に出て向かった裏山は、郷を囲む結界の狭間部分だった。夜という魔の時間帯であったこともあり、絃の妖魔を引き寄せる体質が暴発して大量の妖魔が集まってしまい、結果的に郷の結界を破るに至った。──俺はそう聞いているのだが、なにか齟齬はあるか」

「いいえ、おおむねその通りです。間違ってはいません。でも……そもそもお嬢さまを屋敷から連れ出したのは、お鈴と燈矢さまなんですよ」

 自嘲気味にそう呟くと、お鈴は自ら零れる涙を拭ってこちらを見上げた。

「千桔梗に到着した日、旦那さまはなにか違和感を覚えませんでしたか」

「違和感?」

「ご到着はおそらく日中でしょう? 昼間の千桔梗はどんな感じでした?」

「……ふむ」

 月代州、千桔梗の郷。
 山脈の中心部を切り開き、無理やり開拓した閉鎖郷だ。妖魔境を越えられる者が限られることもあるだろうが、そもそも月代一族が外界との関わりを極力断っていることもあり、郷の存在自体がどこか浮世のような違和感はあった。
 だがしかし、お鈴の求めている答えは、おそらくそういうことではなく。

「そうだな。──千桔梗は、美しかった」

 無言のままこちらを見つめるお鈴を一瞥しながら、続ける。

「千年咲き続けるという千桔梗の花が郷を護るように溢れ、まるでこの世ではないかのように幻想的で。結界内特有の澄んだ空気も心地よかった。その日は晴れていたから、鳥がさえずる音も、木々が葉を掠める音も、川のせせらぎも、よく聞こえていたように思う。穏やかで優しく、しかし不思議なほど〝人〟の気配は感じられない場所だった。月華の喧騒に慣れていた俺は、それがとても印象的でな」

 自然の息吹のみで成り立つ空間。
 ゆえにこそ、千桔梗の美しさをありのまま感受できていた。

「だが、その日の夜に本来の(、、、)千桔梗の姿を見た。それを知らなければ、俺のなかで千桔梗は『幻想郷としてただただ美しい場所だった』という感想だけで終わっていただろう。月代が、夜に動き出す一族だと知らないまま」

 満足のいく答えだったのか、お鈴は頷くと自らの手へ視線を落とした。

「その通りです。月代は、継叉の力を武器に霊力を用いて妖魔を祓う、根っからの戦闘一族。活動時間帯はおもに〝夜〟なんですよね」

「世の在り方とは真逆だな」

「はい。旦那さまもご存じでしょうが、夜になると郷は活発になります。妖魔狩りに出かける者もいますし、帰ってくる者を迎える準備に勤しむ家族もいる。すべての灯篭に火が点いて、月光を浴びた青紫の千桔梗が光りを放ち始めます。昼間の静けさなんてまるで嘘みたいに世界が動き出すんです」

 でもね、とお鈴はどこか幼く続け、両手をぎゅっと握った。

「月代のなかでお嬢さまだけが違ったんです」

「……は?」

「朝起きて、昼に活動し、夜に眠る。夜に生きる月代の民とは正反対の生活をするように、前代──お嬢さまのお父上が、お嬢さまに命じていたから」

 お鈴は立ち上がると、中庭側の板の間に続く襖を開けた。廊下を挟んだ向こうに見える深淵の空から一筋の月明かりが差し込んで、お鈴の顔を照らす。
 過去を見る目をしていた。
 遠く、遥か。けれど、まだそこにいるような。

「お嬢さまは、千桔梗の夜を知らなかったんです」

 ぽつりと呟かれた言葉を呑み込むのに、少し時間がかかった。

「前代がそう命じていたのは、絃を護るためか」