額に軽く触れるだけの口づけを落とし、士琉は絃の部屋を後にする。
 だが、部屋の襖を後ろ手で閉めたと同時に、隣の部屋の襖が音もなく開いた。

「…………!?」

 さすがの士琉でもぎょっとして、目を剥いた。
 気配こそ感じていたが、まさか起きているとは思わなかったのだ。

「お、お鈴。どうした」

 真顔で現れたお鈴は、いつもと雰囲気が違った。
 絃と一緒にいるときの天真爛漫さは鳴りを潜め、どこか鋭ささえ感じる眼差しをこちらに向けている。よもやこんな真夜中に絃の部屋を訪れたことを怒っているのかと肝を冷やしたが、お鈴は思いがけず暗い声で口火を切った。

「……お話ししたいことがあります、旦那さま」



「それで、話とは?」

 絃を起こさぬよう居間に移動し、士琉は座卓を挟んでお鈴と向かい合った。
 お鈴は、神妙な面持ちを崩さないまま唇を引き結んでいる。しばしそのまま返答を待っていると、やはてお鈴は重々しく俯かせていた顔を上げた。

「さきほどの、聞いていたんです。おふたりの会話を」

「ああ……まあ、べつにいい。聞かれて困ることでもないしな」

「はい、でも……お嬢さまが仰られたことが、どうしても心に引っかかって」

 なるほど、とお鈴が言いたいことを察した士琉は、ひとつ息を吐く。

「夜が怖い、というやつか」

「はい。旦那さまには、ちゃんとお話ししておくべきだと思って」

 お鈴は一度ぎゅっと両目を瞑り、震えた声で告げる。

「お嬢さまがそう思うようになった原因は、お鈴にあるんです」

「……どういうことだ」

 思わず声音低く尋ねると、お鈴は両手で顔を覆って続けた。

「お鈴があの日、お嬢さまを外に連れ出してしまったから。全部全部、お鈴が悪いんです。お鈴が、お嬢さまの人生を滅茶苦茶にしちゃったんです……っ」

「っ、待て待て。落ち着け、お鈴」

 その悲痛な声にはっとし、士琉は座卓を回ってお鈴のもとへ歩む。
 お鈴のそばにしゃがみ込めば、彼女は縋るような目をこちらへ向けてきた。
 大粒の涙が浮かんだ瞳はひどく思い詰めたもので、どれほどお鈴が気に病んできたのかがひと目で感じ取れる。
 脳裏に千隼が零していた危惧が過った。

(なるほど。確かに、危ういな)

 いつもの活力が溢れんばかりのお鈴からは、とても想像がつかない姿。零れた涙を指先で拭ってやりながら、そういえばお鈴がまだ十五歳だったことを思い出す。

「すみま、せん」

「いや。悪いが最初から説明してくれないか。今の発言は、十年前の話だな?」

「はい。──旦那さまも、ご存じなんですよね? 〝千桔梗の悪夢〟を」

 震えた声で問われ、士琉は数拍の間を置いて重々しく首肯した。

「あの日、俺は千桔梗にいたからな」

 十年前。齢十六を迎え成人となり、冷泉家の次期当主であることを世に公示された士琉は、各五大名家のもとへ挨拶に回っていた。
 その日はちょうど長旅を終え、千桔梗に到着した日だった。
 千桔梗の悪夢が起こった時間帯、士琉がいたのは郷の中心部にある神殿内。
 月代の当主夫妻、そして同じく次期当主の弓彦との会合がはじまろうというときにそれは起こった。

(千桔梗の郷が喧騒に包まれ、俺は郷の結界が破られたことを知った。当時の俺は、それがどういうことなのかはっきりとわかっていなかったが……)

 神殿を出て、郷の中心部に雪崩れ込んできた大量の妖魔を前に思った。

 ──ああ、地獄だ、と。