なのにどうして、と絃は理解に(きゅう)しながら唇を引き結ぶ。

「うーん。とはいっても、月代本家の娘は絃しかいないからねえ」

「っ……ですが、わたしはこの結界から出るわけにはいかないのです。万が一、嫁いだ先であの日のような悪夢を招いてしまったら……」

 ──千桔梗の悪夢。

 十年前のあの日以来、絃は己の体質による悪夢を再来させないために、本邸の離れに強固な結界を張り、今日まで引きこもり続けている。
 千桔梗の郷をぐるりと囲む結界と、月代本家の本邸を護る結界──そのさらに内側の離れに精製された三層構造の結界だ。
 ここにいれば、さすがに妖魔を引きつけることはない。
 絃にとっては、唯一安心して過ごせる場所なのだ。
 ここを出る、だなんて考えたことすらなかった。

「僕は反対だよ。姉上」

 ふいに口を開いたのは、弓彦の隣に座していた弟の燈矢だ。兄によく似たその相貌は、来月十五歳になる少年とは思えないほど不貞腐(ふてくさ)れている。
 燈矢はいかにも苦々しく弓彦を見遣ると、ふんと鼻を鳴らして腕を組んだ。

「だいたい、兄上も兄上です。なに勝手に姉上の縁談なんか進めてるんですか。しかもよりによって()の人間とかありえないでしょう!」

「私は月代の当主だよ。ありえない、なんて言葉は知らないね」

「あーあーそういうところ! そういうところですよ! 虫も殺さないような顔して誰より腹黒いの、本っ当にタチが悪いっ! なんで僕が当主じゃないんだよ!」

 声を荒らげる燈矢に対し、弓彦は素知らぬ顔で聞き流す。

(兄さまは、腹黒いわけではないと思いますけど)

 絃を挟んで九つほど歳の差がある弓彦と燈矢は、地の性格的には正反対だ。そのせいか、基本的にふたりの会話は対立しながら進む節があった。
 昔から、弓彦はどうにも燈矢に対して大人げないのだ。燈矢も短気ゆえに、すぐ弓彦に食ってかかる。どちらも手は出さないだけ、まだマシではあるのだけれど。

「これはね、いわゆる政略結婚なんだ」

 (わずら)わしそうにひとつ嘆息(たんそく)しながら燈矢の声を断ち切った弓彦。
 一瞬、水を打ったようにしんと室内が静まり返った。絃も、耳を疑う言葉に思わず両目を見開きながら、信じられない思いで静寂を打ち破る。

「政略……結婚、ですか? わたしが冷泉に嫁ぐことで、なにか月代に利益が?」

「あるよ。いろいろとね」

 それがなにかとまでは言うつもりはないのか、弓彦は微笑んだ。

「もちろん絃が悩む気持ちもわかる。体質に関して懸念はあるし、私とて絃を月代から出すのは心配だよ。でもこの縁談はね、冷泉の方から持ちかけてきたものなんだ」

「冷泉家が? 姉上になにを求めて?」

「んー。向こうもいろいろあるだろうけど、いちばんは〝血〟かな」

 予想もしない答えだった。絃と燈矢は同じような顔で目を(しばたた)かせる。

「あれ、ふたりも知っているだろう? 冷泉の次期当主は養子なんだよ。つまり、冷泉の血を継いでいないんだ」

「あー……そういえば、前にそんな話を聞いた気が」

「燈矢は本当に、よくその程度の知識で当主だなんだって言うよね。まあ、ともあれ現状の冷泉家は五大名家としてとても危うい立場にあるんだよ。継叉を輩出できなくなれば、その地位が失墜(しっつい)するのは一瞬だからね」

 理屈は理解できる。多様なあやかしを祖先に持つ月代の血を引き入れれば、継叉は生まれ続けるだろう。だが、それはあくまで絃以外の者が嫁いだ場合だ。