どうやら茜は弓彦のみならず、士琉のことまでも坊呼びしていたらしい。
(……ちょっと待って。術に嵌めようと?)
聞き捨てならない言葉が耳をついて、絃は戦慄する。
確かに、やたらと思考が鈍っていた感覚はあった。妖艶に光る藤色の瞳を向けられてから、茜以外のものがなにも見えなくなって──そう、まるで世界でふたりきりになってしまったかのような、ふわふわした感覚に支配されていたのだ。
もしあのまま引きずり込まれていたら、『うちに来ないか?』という問いかけに頷いてしまっていたかもしれない。
そう思うとぞっとして、絃は思わず士琉の服を掴んでしまう。
「くだらんかどうかは知らないが、少なくとも私は本気だぞ? 素晴らしい才能が潰される前に、うちへ招こうと思っただけの話さ」
「なにを……」
「人の心とは移ろうものだからな。将来を見据えて選択肢を提示しておくのは悪いことじゃない。──まあ、少しやりすぎた自覚はあるけれども」
意外にもあっさり引いた茜は、悪びれることもなく、けろりとした顔で立ち上がりながらくびれた腰に手を当てた。
「で? 継特の隊長と副隊長が揃って勤務時間中になにをしてるんだ?」
茜の目が向いた先には、苦虫を噛み潰したような顔で立つ千隼の姿があった。戸襖に手をかけてはいるが、室内に入るのを躊躇っていたらしい。
しかし次の瞬間、後ろからドンッと押されるように体勢を崩した千隼は、「うわっ」という叫びと共に勢いよく前のめりに倒転した。
だが、さすがの反射神経で体勢を整え、華麗に前転し立ち上がる。
「ちょっと! お鈴ちゃんなにするの!?」
「入口で突っ立ってられたら邪魔なんですよ! お嬢さま大丈夫ですかっ!?」
どうやら、千隼を容赦なく突き飛ばしたのはお鈴であったらしい。
途端に騒がしくなったことで、一触即発だった空気が霧散する。
さすがにこれには茜も「うるさ」と苦笑いだ。
士琉も毒気を抜かれたのか、絃を抱擁する力を緩めた。かと思えば、そのまま抱き上げられ、絃はさすがに辟易しながら立ち上がった士琉を見る。
「し、士琉さま」
「……その足はどうした、絃」
包帯が巻かれた絃の両足を見咎めながら、士琉は険しい顔で問う。
「あの、これはさっき裸足で外に飛び出してしまって……。そのときに砂利を踏んでしまったのか、少しだけ皮膚が剥けてしまったんです。全然歩けますし、本当に大したことはないのですけど、お鈴が菌が入ったら大変だと聞かなくて」
「お鈴が正しい」
即答した士琉はやや脱力して絃の頭に顔を埋めると、唸るように続ける。
「……あまり、危ないことはしてくれるな。心配で俺の寿命が縮む」
「すみません……。ですが、本当にどうなされたのですか? 千隼さんまで」
もしやお鈴が通報したのかと目を遣るも、お鈴はふるふると首を振る。
千隼の表情は言い表せないほど気まずそうだし、士琉もまたその問いかけには答えづらそうだった。
いくら絃でも、この状況には疑念を覚えずにはいられない。
「ここに来るまでの道中、継特の軍士たちを何人か見かけた。それから、火事だなんだと噂してる民の声も聞いたな。君らの様子を見るに、それ関係だろう?」
もうなにかを確信しているような口ぶりで、茜が小首を傾げる。
「火事、ですか?」
「んーあー。もー……。どうして言っちゃうかなあ、茜姐さん」
さすがにこれ以上は誤魔化せないと察したのだろうか。千隼がどこか諦観したように「しょうがないけどさ~」と投げやりに言って嘆息した。