ここにいろと言われても、それほど危険かもしれないのなら、なおさらお鈴をひとりで行かせるわけにはいかない。
 慌てて絃も立ち上がり、後を追いかける。
 しかし、お鈴が戸を開ける音が聞こえた直後、「きゃあ!」という悲鳴が続いた。

「お鈴!?」

 絃は転がりそうな勢いで駆け出し、廊下を曲がる。

「えっ……!?」

 開いたままの玄関の先には、大門のそばで倒れるトメと、彼女を抱き起こすお鈴の姿が見えた。裸足のまま外へ飛び出した絃は、ふたりのもとへ駆け寄る。
 大門の内側──結界の境を超える際はさすがに数瞬ほど躊躇(ちゅうちょ)したものの、このときばかりは外に対する恐怖よりも心配の方が勝っていた。

「お鈴、大丈夫……っ? トメさんはどうしたの!?」

「お、お鈴はなんともありません。ですが、トメさんがここに倒れられていて」

 ぐったりとしたトメは、どうやら意識を失っているようだった。お鈴も急なことに動揺しているのか「どうしようどうしたら」と涙目で繰り返している。

(お、落ち着かないと。見たところ怪我はしていないみたいだけど、倒れたときに頭を打っているかもしれないし、あまり動かさない方がいいわよね)

 思考が散乱しそうになるが、ここで取り乱してはいけないと自分に言い聞かせる。
 ひとまず呼びかけて意識の確認を、とトメの体に触れたそのときだった。

「いたっ……!?」

 バチン!と、強い静電気のような痛みが触れた先に走り、同時にトメの体が一度びくっと痙(けい)攣(れん)する。
 その直後、絃は全身に怖気(おぞけ)が這うような感覚に襲われた。
 トメの体の下──正確には影になった部分から、黒い塊が這い出てきたのだ。

「ひっ……!」

 大きさはせいぜい子犬ほどだろうか。
 造形も四足の獣のようだが、全身は深淵を丸めて生成されたような黒一色。
 そこまでは妖魔とよく似ているものの、しかしそのなかでひとつ、妖魔にはないはずの特徴があった。
 ふたつの赤い瞳だ。不吉な満月のようにぎろりと浮かんだ赤と目が合ってしまった絃は、恐怖に腰を抜かして、その場に尻もちをついてしまう。
 声にならない悲鳴が喉を掠れ落ちるが、それは思いがけず絃たちから逃げるように駆け出した。思わず目で追う。しかし、そのまま斜め前に建つ家から伸びる影のなかに身を潜めた瞬間、それは一瞬にして視認できなくなってしまった。

「え……!?」

 雲を霞と消えた妖魔らしきモノに、絃は混乱を募らせる。

(影のなかに、潜っていった……?)

 確かに、陰の塊である妖魔は、闇や影から湧くとされている。だが生まれてこの方、一度湧いたものがふたたび影に潜って消える妖魔など聞いたことがない。
 いや、そもそもあれが妖魔なのかも怪しいところだが──。

「い、今のは、なんですか? 妖魔……? こんな昼間に?」

 絃と同じように一連を目撃していたらしいお鈴は、ぎょっと目を剥いて硬直している。この反応からして、お鈴もまたあれが妖魔だという確信が持てないのだろう。
 ひとまず妖魔による危機は去った、と考えていいのか。あるいは、すぐに灯翆月華軍へ通報するべきなのか。否、優先すべきはやはりトメの容態か。

「なにやらお困りのようだな、お嬢さん方」

 混乱と動揺を抑えきれないまま逡巡したそのとき、ふいにザッとそばから足音が聞こえ、低くも艶やかな声が降り注いだ。
 はっとして振り向くと、そこに立っていたのは見知らぬ軍服の者。
 長身痩躯、肩につかない程度の短い深紅の髪。端麗な容姿が目を惹くが、切れ長の双眸はどこか怜悧な印象を受ける。