しどろもどろにそう答えると、士琉はふっと穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

「ああ。行ってくる」

 そうして今度こそ屋敷を出て行った士琉の背中を見送った絃は、玄関の戸が閉まったあとも、しばしその場にぼうっと立ち尽くした。
 相次いだ衝撃の言葉がぐるぐると巡って、頭がついていかない。
 だが今、なんだかとんでもないことを士琉に言われたような気がした。

(こ、恋……心……?)

 聞き違いでなければ、確かに士琉はそう発していた。話の流れ的に関係しているのは絃以外ありえないだろうが、士琉が言い間違えるとも思えない。
 恋心。恋をした心。

 ──誰が、誰に?

(士琉さまは、以前わたしに〝ただそばにいてくれるだけでいい〟って仰った。それから、わたしが士琉さまを好きになるまで足掻くって)

 その言葉たちと〝恋心〟を掛け合わせて導き出される結論は『まさかそんな』のひとことでしか表せない。紐解いてしまうのが、いっそ恐ろしい答えだけれど。
 だが、もしも。もしも本当に、そうなのだとしたら。

「え……えっ……?」

 ぶわり、と急速に熱せられたように全身が熱くなる。瞬く間に火照った頬は、とても信じられない事実を前に、あまりにも素直な反応を示してしまっていた。



 士琉が仕事に出ている日中、絃はトメやお鈴と共に家事に勤しみながら過ごす。
 掃除や洗濯、三度の食事の用意。
 月代にいた頃はどれも専属侍女のお鈴がやってくれていたことだが、絃も花嫁修業の一環としてひと通り教えられてはいるのだ。
 しかし、まさか自分が本当に嫁入りすることになろうとは思っていなかったからだろうか。そういう時間が少し不思議で、半月が経過してもなかなか慣れずにいた。

(月代にいた頃はわたし、毎日どう過ごしていたっけ)

 居間でお鈴と洗濯物を畳みながら、絃はぼんやりと考える。
 こちらでの生活には徐々に慣れてきているけれど、絃はまだ結界の張ってあるこの屋敷からは一度も出たことがなかった。それでも月代の離れに比べれば広範囲を動くことはできているし、トメやお鈴の存在も近いため〝孤独〟はどこにもない。
 ただただ、平和だった。
 思っていたよりも……否、不安になるほど何事もなく日々が過ぎてゆく。それが妙に落ち着かないのは、己の存在意義がまたわからなくなりそうだからだろうか。
 あるいは──。

「お嬢さま? 大丈夫ですか?」

 ふいに目の前に顔を覗かせたお鈴が、こてんと小首を傾げた。

「っ……え?」

「今日は朝からずっと心ここにあらずって感じなので、お鈴は心配です。トメさんが帰ってきたら、お医者さまにかかりましょうか?」

「だ、大丈夫よ。体調が悪いわけではないから」

「ですが、環境の変化もありますし……。、弓彦さまからも気をつけるよう言われているんですよ? これまでずっとこもって生活していたぶん、外に出たら少なからず負担がかかるからよく見ておいてって。お嬢さまも知らないうちに負担がかかっているのかもしれませんし、やっぱり一度、診ていただいた方が──」

 心配で(たま)らないらしいお鈴が、そこまで言ったときだった。突然、がしゃん!という激しい音が玄関の方から響き、絃とお鈴は揃って肩を跳ね上げる。

「な、なにかしら」

「……わかりませんが、ちょっと見てきますね。結界がありますし妖魔ではないと思いますけど、悪いやつだったら大変ですから。お嬢さまはここにいてください」

 さっと顔を強張らせたお鈴が素早く立ち上がり、早足で部屋を出て行く。

「ちょ、お鈴……っ!」