そろ~っと逃げようとしていた千隼の首根っこを掴みながら、士琉は睥睨(へいげい)する。

「畳の弁償はこいつにさせる」

「ええっ、なんで!?」

「なんでもなにもあるか。お鈴があの瞬間出て行っていなければ、おそらく俺はおまえを殴り飛ばすか……いや、危うく刀で喉元を斬り裂いていたやもしれない」

「いや、物騒! なんでみんなそう暴力的なわけ?」

 逃走は諦めたのか、千隼はぶら下がりながらぶつぶつと文句を口にする。
 そんな千隼の前に、士琉の腕から抜け出した絃が進み出た。いったいなにをするのかと思えば、彼女はどこか困ったような顔で続ける。

「うちのお鈴が申し訳ございません。お怪我がなくて、なによりでした」

「え」

「それから、さきほどのお話ですが……。わたしには士琉さまがおりますので、ごめんなさい。不釣り合いだと自覚はあるのですけど、もうわたしは士琉さま以外のお相手を考えられないんです。士琉さまでなければいけない理由もあります」

 千隼は「へ」と固まりながら、両目を瞬かせた。
 さきほどからひと単語しか発していないが、そばで聞いている士琉でさえ同じ心象だったので気持ちはわかる。絃の発言は、すべてが予想の斜め上をいっていた。

「冷泉家に、士琉さまに嫁ぐことこそ、わたしの使命ですので……」

「あ、ソウデスカ……」

 さすがの千隼も、まさかこの混沌とした状況でそんな返事をされるとは思っていなかったのだろう。士琉もまた思いがけない流れ弾を食らって呼吸が乱れかける。

「とはいえ、五大名家の方と知り合えるのは純粋に嬉しいことです。不束者(ふつつかもの)ではありますが、どうぞこれからよろしくお願いいたしますね」

「あ、ハイ」

 絃の天然ぶりに千隼が敗北した音が聞こえたような気がした。
 まるで魂をごっそりと抜き取られたかのように小さくなる部下に同情しつつも、あえて(ねぎら)いはしない。士琉が支えているのをいいことに、全体重をかけて身を預けようとしたため、容赦なく片手で廊下の板の間に放り投げた。

「いって! ちょ、隊長ひどい!」

(やかま)しい。仕事をしに来たのではないなら早く帰れ。言っておくが、俺はまだ〝休暇期間中〟だ」

「や、お休みを邪魔したのは悪かったですけど、一応ほんとに仕事なんですって。隊長の執務室に報告書置いときましたから、ちゃんと読んどいてくださいよ。隊長がいないあいだに、そりゃもういろいろあったんですから」

 千隼の含みのある発言に、士琉は眉を寄せながら聞き返す。

「いろいろ、とは?」

「大きな声では言えないことです。正直、だいぶ厄介なことになってきてまして」

 これまでのものぐさな態度から一転、すっと真面目な顔に切り替えた千隼は、周囲を気にしてか声を潜める。

(千隼がそう言うということは、よほどのことだな)

 この男はこう見えて、仕事にはいっさい手を抜かないのだ。だからこそ士琉も、なんだかんだ言いつつ己の片腕として信頼しているのだが。

「ともかく、隊長がいないとうちは回りませんからね。新婚生活を満喫したい気持ちはわかりますけど、こっちも忘れないでください」

「心配するな。むしろこれまで以上に励む心意気ではある」

「いや、そこはこれまで通りでいいんで。それ以上働いたら倒れますよ」

 じゃあ帰ります、と踵を返した千隼を見送りつつ、士琉は深く息を吐き出した。
 そんな士琉の様子に不安を覚えたのだろう。しずしずと歩み寄ってきた絃が、共に千隼を見送りながら躊躇(ためら)いがちに問いかけてくる。

「あの、大丈夫なのですか?」