むしろそうだったならどれほどよかったか、と絃はずっと思っていた。
 ともあれ、そんな根も葉もない噂話が広まっていたことを考えると、やはり絃の存在は月代一族において(わざわい)でしかなかったのだろう。
 公的に疎ましい存在を追い出せるとなれば、みなは喜ぶに違いない。

「ふむ……なるほど、そうか。君の答えはわかった」

 桂樹は小さなため息と共に答えると、おもむろに士琉に目を遣った。

「士琉、私ができることはしたつもりだ。あとはおまえ次第だぞ」

「……わかっています。まあ、最初から苦心する覚悟はできているつもりですので」

 頭痛を堪えるように返答した士琉は、ふいに立ち上がり、絃に手を差し出した。
 いったいなんの手だろう、とその手と高い場所にある士琉の顔を交互に見ると、どうにも痺れを切らしたらしい。
 いきなり身を屈ませた士琉に、軽々と抱き上げられる。

「へっ……!?」

 あまりにも突然のことになにが起きたのかわからず、士琉の首に(すが)りつく。すると士琉はふっと花が(ほころ)ぶような微笑を滲ませて、絃を片腕に座らせた。

「し、士琉さま、これは……っ?」

「なに、そろそろお(いとま)しようと思ってな。そのまま楽にしていてくれ」

 お暇するとしても、どうして運ばれる必要があるのだろう。頭のなかが混乱で満ちるなか、さっさと部屋を出ようとした士琉に桂樹の声がかかる。

「あまり絃さんを戸惑わせるんじゃないぞ、士琉」

「父上に言われたくはありません」

「まあ、否定はせんが。──絃さん、最後にひとつ」

 抱えられながら振り返った絃は、桂樹の眼差しに驚いた。そこにはさきほど感じた鋭さはいっさい残っておらず、ただただ柔らかな温もりが浮かんでいたのだ。

「君の芯の強さはお父上に、月代の千桔梗を体現したような儚い美しさはお母上にそっくりだ。まるで故友の若き頃と再会したような気がするほど」

「え……」

「この命が尽きる前に、君と会えてよかった」

 予想もしない声掛けに、絃は返す言葉を失って唇を引き結ぶ。

(……わたしが、父さまと母さまに似てる──?)

 絃にとっての両親の姿は、喪った日に見た最後の姿で止まっている。
 平和で、ただ幸福で、きっといつかはと未来に希望を持つことができていた日々の記憶は、もう幾星霜(いくせいそう)に紛れて(かす)れてしまった。
 遠い遠い過去。在りし日のどこかでは、心から絃を愛してくれていた両親を知っているはずなのに、思い出すのは、いつも。

「絃」

 哀しい思考の波にざぶんと囚われそうになった瞬間、氷のように冷え切った手を優しく握られた。同時に鼓膜を揺らした声は、絃の意識を自然と現実へ引き寄せる。

(今、名前を……)

 憂慮(ゆうりょ)が浮かぶ眼差しは、絃と視線が絡み合うとほっとしたように和らいだ。

「君はすぐに迷子の目をするから、心配になる」

 そんなことをしみじみと口にした士琉は、桂樹の部屋を後にしてからもしばらく手を離さずにいた。まるで己に繋ぎ止めるように、柔く、強く。
 たったそれだけのことが、とても痛くて、温かくて。
 思わず零れそうになった涙を、絃は慌てて目を瞬かせて押し留めたのだった。



 冷泉本家を後にし、ふたたび駕籠へ。
 そこから数分ほど揺られて到着したのは、士琉が所有するという小屋敷だった。
 西の小通りから、南の小通りへ抜けた先。
 華やかな大通りとは正反対で、長屋が整然(せいぜん)と並ぶ閑静な通りの角区域に建つ。背の高い大門と野面積みされた石垣。その向こうには緩やかな稜線の棟が見える。