序幕 千桔梗の悪夢
静寂に満ちた宵を包む月華の下、青く、淡く光る無数の花々があった。
千年もの時を咲き続ける常盤の花──〝千桔梗〟だ。
揺らぐ小川の水面に反射し、儚い神秘を生む月光花。可惜夜の月明かりに乗せられ、地上に映し出された天の川のような青の螺旋は、ひどく幻想的で。
けれども、その幽玄さはどこか物悲しい。
生まれて初めて屋敷の外に出た絃は、その光景にいたく感動した。
涙が出そうだった。
外の世界は、こんなにも美しいのかと。
言いつけを破ってまで外に出た甲斐があった、と心から思った。
そうして罪悪感と共に胸の奥底に芽生えたのは、わずかな嫉妬と羨望。
なにしろ、自分以外のみなは、いつもこんなに綺麗なものを見ているのだ。
羨ましいし、ずるい。
自分は屋敷から出ることすら禁じられているのに。
──外界に憧れ、まほろばに魅せられた八歳の少女は、知らなかった。
己がどれほど危険な存在なのかも。
結界が張られた屋敷から出てはならない理由も。
だから、あんな悪夢のような地獄をもたらしてしまったのだろう。
「あ、ああ……っ」
ぽこ、ぽこ、こかん。
おぞましい漆黒の闇が、地から湧く。
郷を包囲する結界は、とうに破られていた。
喰らおうとしているのか、あるいはただ殺したいのか。
どこからか現れた禍々しい異形〝妖魔〟が、腰を抜かしてへたり込む絃を囲み、じっとこちらを狙っている。
そのうちの一匹。獣型の妖魔が、血濡れで倒れる母を踏んだ。
「い、や……やめて……かあ、さま……」
おびただしい数の妖魔に襲われ、対処しきれず怪我を負った母。
暗くてはっきりとはわからなかったが、身体のあちこちが喰われていた。倒れる母を中心に広がる赤黒い血溜まりは、徐々にこちらへ迫っている。妖魔が躊躇いもなくそれを踏むせいで、ぴちゃ、ぴちゃん、と全身が粟立つような音が響く。
──妖魔が、母と絃のあいだに倒れている弟と侍女を捉えた。
「だ、だめ……!」
たまらず絃は、彼女たちのそばへ這い寄った。
その絃から距離を取るように、ざっ、と妖魔が後ろへ飛び退く。
「お、じょう、さま……」
倒れていた子どものひとり──侍女のお鈴が、弱々しく絃の手を握った。
「に、げて……」
お鈴は、腕を怪我していた。
絃を護るため妖魔に立ち向かった際、裂傷を負ってしまったのだ。かたわらで気絶しているもうひとり、弟の燈矢も、小さな背中を爪で深く抉られていた。
ほぼ力が入っていないお鈴の手を握り返しながら、絃は頭を振る。
「やだ……どうして、こんな……っ」
「にげ、て……お、じょう、さまだけ……で、も……」
ふ、と。お鈴の手から完全に力が抜けた。瞼は閉ざされ、届く声も失われる。
母も、お鈴も、燈矢も動かない。
ぴちゃん、とまた嫌な音がした。
──その瞬間、絃は自分のなかで、なにかがぶつりと切れる音を聞いた。
血ではないなにかが全身を駆け巡る。その耐えがたい熱さが視界を焼き、真白に染まった。甲高い耳鳴りが世界を支配し、もう前後左右すら不明瞭になっていく。