夜霧のごとく微細な水粒が、晩刻の翠緑(すいりょく)のなかに舞い上がる。

「いざ、お相手願おうか」

 次の瞬間、玲瓏(れいろう)にそう発した彼は妖魔の大群へ身を投じた。
 いっさい無駄のない華麗な動きは、いっそ美しくさえ感じられるほど。
 瞬きをするあいだに、跋扈(ばっこ)する妖魔が次々と斬り倒されていく。
 同時に宙を泳ぐ水流は、暗雲を切る龍の如く、湧き始めたばかりの妖魔までも呑み込み、たったの一匹も取り逃がすことはない。
 背後から襲いかかってくる妖魔の攻撃ですら、まるで見えているかのように必要最低限の動きで避ける。斬り裂くときでさえ目を向けてはいなかった。
 纏う水流が羽衣(はごろも)に見えてくる。
 狩る、なんて言葉はあまりに野暮(やぼ)だった。
 そうしてあっという間に最後の一匹を仕留め終わった彼は、しかし何事もなかったかのように刀を(さや)に納め、「ふむ」と妙に憂いた呟きを落とす。

「夜の間は、またいつ襲われるかわかったものではないな。やはり早々に月代州を抜けてしまわねば」

 いつしか黄昏は群青を超え、夜闇に移り変わっていた。
 水をはらんだ月の霜は皮肉なほど美しく、絃は途方に暮れながら彼を見つめる。
 色香を感じさせる見目麗しい顔立ち。佇まいでさえも絵になる風雅(ふうが)さ。
 弓彦や燈矢も綺麗な顔立ちをしているけれど、こうまで完成された美を持つ人がこの世に存在することが、ただただ信じられなかった。

「……絃嬢」

 そんな超越(ちょうえつ)した美のなかに惑いを浮かべた彼が、絃のもとに近づいてくる。

「終わったぞ。もう大丈夫だ」

 彼は絃の頭から軍帽を取り、自身の頭に被り直した。顔の半分を覆ってしまうほど目深ではなく、今度はきちんと表情が窺えるほどの形で。
 そうして完成された正装を見てしまえば、もう確信する他ない。

「冷泉さま……」

 思わずぽつりと落とした絃の言に、彼は驚いたように双眸を見張った。だが、すぐに苦笑しながら「君も、冷泉になるんだろう」と返される。

 冷泉になる。

 わかっていたはずなのに、いざそう言われると不思議な心地がした。自分の在り方がその瞬間、かちりと変わったかのような──枠を外れたかのような。

「ここまで黙っていてすまなかった。改めて名乗らせてくれ」

 地にへたり込んだまま見上げていた絃と、視線の高さを合わせるためだろうか。衣服が汚れることも厭わず片膝をついた彼は、絃を正面から見つめ、告げる。

「俺は、士琉。冷泉士琉という。君の結婚相手となる者だ」

 今まさに、絃が嫁入りのために向かっている先にいるはずだった相手。
 そんなはずはないと疑いたくなるが、疑いようのない事実を絃は見てしまった。

(灯翆国で水龍の継叉はひとりしかいない……)

 水龍は数多に存在するあやかしのなかでも、極めて上位に位置するモノだ。
 妖怪、物の怪と云われる類に属しながら、その存在は神にほど近い。水の守り神の化身、といっても過言ではないという。実際、五大元素のひとつである〝水〟を自在に操ることができるのは、水系の力を有する継叉でも水龍の継叉だけだそうだ。
 現在の灯翆国で、水龍の継叉はたったのひとり。
 くわえて最強軍士としても名を馳せている彼は、こう呼ばれている。

 ──水龍の軍神、と。

「どうして、あなたさま自ら、わたしを迎えに……? 冷ぜ……いえ、士琉さまは軍士としてのお仕事で多忙を極めていらっしゃるはずでは」

「君を他の者に任せたくなかったからな」

 迷いもせず返された言葉に、絃は狼狽える。