記憶の濁流(だくりゅう)に呑まれて、感情が滅茶苦茶だった。
 今は千桔梗の悪夢のなかにいるわけではない。けれど、今朝方思い出してしまったトラウマの続きを、またここでも繰り返しているような気がした。
 幼い自分と今の自分が重なって、涙が次から次へと頬を流れていく。だが、あのときとは違って声は出ない。静かに涙を流しながら茫然(ぼうぜん)とするばかりだ。
 そんな絃の前に、数体の妖魔を倒しながら近づいてきた漆黒の彼が膝をついた。

「絃嬢」

 頭にぽすっと乗せられたのは、彼が被っていた軍帽。それは絃の頭にはいくらか大きくて、なにもせずとも目許まで軍帽のなかに埋まってしまう。
 一瞬、視界から光が失われたおかげか、記憶の濁流が止まった。
 はたして、いつから呼吸を止めていたのだろう。急に体内へ流れ込んできた酸素に溺れかけ、はく、と口を動かす。指先から全身にかけて痺れが広がっていた。

「一度ゆっくり呼吸しろ。お鈴の呼吸に合わせて。……ああ、いいぞ」

 痺れる手で軍帽を持ち上げ、おずおずと声の主へ視線を向ける。
 だがその瞬間、絃は己の視界に映りこんだものに、刹那(せつな)のあいだ、時を忘れた。

(え……)

 混沌(こんとん)とした場にはいささかそぐわない、柔らかな夜風が吹く。
 まるで絹糸で紡がれたかのごとく美しい白銅色(はくどういろ)の髪がそよいだ。その下には、長い睫毛(まつげ)(ふち)取られた宝玉(ほうぎょく)のような瑠璃色の瞳がある。

「あな……たは……」

「大丈夫だ。君はなにも見なくていい」

 こんな状況だとは思えぬほど悠揚(ゆうよう)迫らぬ声音で告げ、彼は外套を素早く取っ払うと、お鈴ごと絃を包むようにかけてきた。ついでと言わんばかりに口布も外し、外套の下から現れた白練(しろねり)の軍服の腰紐に引っかける。
 露わになった彼の相貌に、絃はつかの間、恐怖すら忘れて魅入ってしまった。全身を覆い隠していた漆黒を取り去った彼は、あまりにも端麗な顔立ちをしていたのだ。

「すぐに片づけるから、目を(つむ)って待っていてくれ」

 絃の頭を軍帽の上から軽く撫でつけ、彼は颯爽(さっそう)と立ち上がった。
 そうして、気づいた。彼が身に纏っているのは、ただの軍服ではない。

 ──灯翆国の者なら誰もが知る〝灯翆月華軍の軍隊服〟だと。

 胸元に(かか)げる三日月の国章がその証だ。
 これは灯翆月華軍の軍士にのみ授けられるもの。とりわけ、彼が持つ三日月の二重紋は〝継叉特務隊(けいしゃとくむたい)〟所属の者であることをも示していた。
 継叉特務隊は、灯翆国において王家や五大名家に()ぐほどの権威(けんい)を持ち、同時に軍都〝月華〟の砦とも言われている特殊部隊のことだ。少数気鋭で所属するには多様な条件が必要となるうえ、継叉として群を抜いた実力を持っていないと難しいと聞く。

「おまえたちは下がっていろ。この程度、俺ひとりで十分だ」

 加勢しようとしたのだろう。それぞれ構えながら刀を抜いた駕籠舁の者たちに淡々と告げると、彼は一度は戻した太刀をふたたび抜き取った。
 月明かりが反射して鋭利(えいり)な刃が光る。
 同時に、その場の空気が震撼(しんかん)した。
 彼を中心に生み出されたのは、激しくもしなやかな水流。渦を巻くように宙を優雅に泳ぐそれは、いつか読んだ本に記録されていた伝説の龍を彷彿(ほうふつ)とさせた。

(……違う。この、力は)