纏う外套は前を紐釦で留めているため、身につけている衣服さえ窺い知れない。
ともあれ、すべてが黒い。
ただそのなかで唯一、こちらを見つめる澄んだ瑠璃の瞳だけは、闇に覆い隠されることなく鮮やかな存在感を放っていた。
それが妙に目を引いて、つい見入ってしまう。
すると、その反応を怪訝に思ったのか、彼はわずかに眉根を寄せた。
「大丈夫か? どうした、ひどく顔色が悪い」
鼓膜を震わしたのは、低音ながらぞくりとするほど色香の漂う声音。思わず息を呑んでしまいながら、絃はおずおずと彼の腕のなかから離れた。
背丈は六尺近いだろうか。明らかに怪しげな身なりにもかかわらず、こちらを見下ろす瞳には案ずるような色が強く滲み出ていて、絃は困惑する。
(ど、どなた……?)
返事もできぬまま立ち尽くしていると、後ろからぽんと右肩に手を置かれた。
反射的にびくりと振り返る。
「大丈夫かい、絃」
いつの間に出てきたのか、絃の背後に弓彦が心配そうな面持ちで立っていた。
絃は自然と詰めていた息を吐き出す。
「だ……大丈夫、です。あの、少しふらついただけですので……」
「──少しふらついた、じゃないし! なにやってるんですか、兄上っ!!」
そこに突然、大声で割り込んできたのは燈矢だ。
「ちょっと姉上、大丈夫!? 頭打ったりとかしてないよね!?」
全速力でこちらに駆けてきたかと思えば、燈矢は絃の両肩を勢いに任せてがっと掴み揺さぶった。
あまりの剣幕に気圧されながら、絃は両目を瞬かせて首を引く。
「だ、大丈夫よ。でも、あの、激しいから。やめて、燈矢……」
もし本当に頭を打っていたら、この行動はいささかまずい。
「どうせ鬼畜な兄上にトラウマを刺激されたんでしょ。表門じゃなくて裏門に来いって言われたとき、なんか嫌な予感がしたんだよ。ったく、ろくでもない!」
当主に対して失礼すぎる発言が飛び出して、絃はひやりとした。が、弓彦にとっては日常茶飯事なのか、とくに気にした様子もなく涼しい顔をしている。
「だって、これがいちばん絃のトラウマ克服に効く方法なんだよ」
「馬鹿なんです!? もっとトラウマになったらどうしてくれるんですかっ!」
「そうならないように、私も一緒にいたじゃないか」
やはり弓彦は、あえてこの道を通ることで、絃のなかに埋め込まれた潜在意識を変えようとしていたらしい。
効果のほどがあったのかはわからないけれど、確かに今度この道のことを思い出したら、一緒に今の光景が巡るかもしれない──と、絃は疲れ気味に思う。
「まあ、荒療治だったのは認めるよ。ごめんね、絃」
「い、いえ……」
まだ頭の中心は霞んでいるし、不安定な感覚も残っている。おそらく自覚しているよりも精神的な損傷が大きかったのだろう。
けれども、弓彦とて絃を思って取った行動だ。それがわかっているから怒る気にはなれず、多少げんなりしながらも首を横に振る。
「……すまない、状況が把握できていないのだが。絃嬢は体調が悪いのか?」
そんな絃たちを前に混乱した様子で問いかけたのは、漆黒の男だ。
彼に含みのある眼差しを遣った弓彦は、明らかに作り物の笑みを浮かべる。
「大丈夫さ。──絃、こちら駕籠舁さんね」
「駕籠舁さん?」
「そう、絃を軍都〝月華〟までお届けしてくれる方々のひとり。彼らは護衛も兼任しているから、なにかあっても護ってくれるはずだよ」