まるで水を打ったように、静寂が空間を支配した。
 目を瞠り、こくりと息を呑んだ士琉を正面から見据えて、絃は続ける。

「士琉さまが想ってくれていた十年間、わたしは士琉さまのことを憶えていなくて本当に申し訳ないと思っているのですけど……。でも、あの約束は確かにずっと、わたしの心に残っていたんですよ。文も、わたしの宝物ですし」

 ここに来るまで、恋が、恋慕が、どういうものか知らなかった。
 けれど、あの結界のなかで想いを馳せていた相手はいる。

「そう思うと……わたしはもうずっと、士琉さまに支えられてきたんですね」

 遠い遠い、在りし日の記憶のなかで絃と約束を交わしてくれた人。
 毎月、文を送ってくれる人。
 蓋を開けてみれば、いつだって絃が会いたいと思っていたのは同じ人物だった。
 そんな相手が今、自分の夫となるべく目の前にいる。
 それはとても不思議な心地だけれど、運命でも、必然でも、偶然でもなく、士琉が願ってくれたからこそ今が在るのだと思えば、愛しくて、尊くて。
 大切にしたい、と思うのだ。
 絃を深く求めて、絃を一途に想い続けてくれた、この世界で唯一の人を。

「わたし、今、とても幸せです。士琉さま」

 どうにも面映ゆさを隠しきれないままはにかんだ、その瞬間。

「っ……ああ、くそ」

 ふいに、らしくもない悪態をついた士琉に手首を掴まれた。
 そのまま、思いきり引き寄せられる。自分が恋い慕う相手に抱きしめられたことに気がついたのと同時、耳元で吐息混じりの低い声が零れた。

「俺で、いいのか? 後悔はしないか」

「し、士琉さま以外の旦那さまを、わたしはもう考えられません」

 猫のように擦り寄られ、絃はくすぐったく思いながら士琉の服を掴んだ。
 最近気づいたが、士琉はときおり、こうして暴走することがあるらしい。感情が押し殺せなくなったときや、思いがけないことに直面したときが多いだろうか。
 とりわけ絃に関することだと表れやすいようで、さすがに何度か遭遇していればいったい何事かと焦ることはなくなってきた。
 どうしても、驚きはするけれど。

「俺はこう見えて、わがままなんだ。手に入れたものは離してやれないぞ」

 ゆっくりと身体を離した士琉は、こつん、と額と額を合わせながら言う。

「はい。どうか離さないでください」

「……覚悟のうえか。なら、いい」

 今にも触れそうな距離。触れられる距離。
 大好きな千桔梗によく似た士琉の瑠璃の瞳が好きだと、改めて思う。
 絃は頬を赤らめながら、恥じらいまじりに笑みを咲かせた。

「士琉さま。大好きです」

「ああ……俺もだ。──ずっと、絃だけを愛している」

 距離がさらに近づく。自然と目を瞑ってしまったのは本能なのだろうか。
 優しく口づけられたその瞬間、絃は愛しさが溢れていっぱいになってしまう。
 いつまでも、どこまでも、ただ優しい。
 深いところまで慈しむようなそれに、絃はつい、泣きそうになる。

「泣かないでくれ、絃」

「泣いてません」

「そうか」

「泣いていても、悲しいわけではないので、いいんです」

「ん……。しかし俺は、君の泣き顔に弱いからな」

 ふたたび口づけられたあと、士琉は絃を高く抱え上げた。
 驚きながらも士琉の肩に手をつき、向き合うような形で見下ろす。千桔梗の青白い光を背に縁取られた士琉は、こちらを見上げながら「絃」と名を紡ぐ。

「ひとつだけ、訊いてもいいか」

「はい」

「──君はまだ、夜が怖いか」

 絃は千桔梗の郷と繋がる夜空を見上げながら、ゆっくりと頭を振る。
 答えに迷うことはなかった。