だが、その拍子に絃は口許を押さえていた手拭いを離してしまう。
それを素早く受け止め口許へ押し戻してくれたのは、他でもない千隼だった。
「はは……こんなとこまで来ちゃうんだもんね。絃ちゃんもお鈴ちゃんも肝が据わりすぎだよ。もっと自分を大切にしてほしいなぁ」
「す、すみません」
ふたたび手拭いを口に当て直しながら、絃は狼狽える。
千隼の口調はいつも通り飄々としており軽妙だが、その足取りは覚つかない。見るからに気力でどうにか立っている状態で、絃はおろおろと士琉を見上げた。
「……おまえもだぞ、千隼。大丈夫か」
「面目ないですね、ほんと。まあさすがにちょいと煙を吸いすぎたかなーとは思いますけど、まだ動けます。うん。ぎりね、ぎり」
「外まで行けるか」
「そんくらいは踏ん張りますよ。死にたくないし、死なせたくもない」
「ああ。無理をさせて悪いが頼む。外で海成と医療班を待機させているから、俺が鎮火した道を通って、このままお鈴と一緒に──」
士琉が厳しい顔で指示を伝えかけたそのとき、千隼の背中でぐったりしていたお鈴がわずかに身じろぎをして顔を上げた。
「お鈴……っ!」
「……お、じょうさま……」
誰よりも早く反応した絃が名を呼ぶと、ふらふらとこちらに手が伸ばされる。反射的にその手を握り返せば、その体温に安心したのか、お鈴はへなりと笑った。
「よかった……ご無事、だったんですね……」
「わたしは大丈夫よ。でもお鈴、どうしてこんな無茶を」
「お嬢さまは、お鈴の……すべて、ですから……」
幾度となく聞いてきた言葉と共に、お鈴はそう力なくはにかんで見せた。
もうそばにはいられないと言ったのに。
絃に近づかないでほしいと叫んでいたのに。
今はこうして絃の手を握って、苦しいはずなのに無理をして笑ってくれている。
「ごめ……っ、ごめんね、お鈴。本当にごめんなさい」
「謝らないでくださ、いな。お嬢さまが、生きててくれることが……お鈴の……」
それっきり、お鈴の声が途絶えた。
「……お、鈴?」
どうやら、限界を迎えて意識を失ってしまったらしかった。最悪の結末が否応なしに脳裏を過り、頭の先から血の気が引いていく。
「お鈴? お鈴、お鈴っ! しっかりして!」
「絃、落ち着け。──千隼、お鈴を連れて急いで脱出しろ」
「っ、了解」
「おまえもしっかりと診てもらってから休め。無理をして動くなよ」
お鈴に縋りついた絃を自分の方へ優しく引き寄せながら、士琉は早口で命じる。
千隼はくっと眉を寄せ、苦渋を滲ませながらもこくりと頷いた。
「すみません」
「謝るな。おまえの選択は間違ってない」
「いや……さすがに、ちょっと。おふたりに顔向けできないんですよ。状況的に致し方なかったとはいえ、おれ、お鈴ちゃんを優先しちゃったから」
千隼の言葉に空気が凍りつく。士琉は目を眇め、視線だけで先を促した。
だが、千隼が口を開くよりも前に、廊下の先から爆発音が響いた。屋敷全体が心配になるほど軋み、がたがたと揺れる。まるで地震でも起きているかのようだった。
「この奥……父上の部屋か」
「はい。──隊長。今回、憑魔の犠牲になったのはご当主です」
千隼は神妙な面持ちで告げた。
絃がまさかの事実に言葉を失う一方、士琉はそれすらも予想していたのか「やはりな」と吐息のように呟いた。その表情の色は、読み取れない。
「予想してたんですか」
「まあな。この火事もおおよそ憑魔に乗っ取られた父上の仕業だろう。父上は片輪車の継叉だからな。これだけ火の回りが早いのも納得できる」