罪は流れて、雨粒にわらう




「それで、お母さんは?」
「ばあちゃんの病室。もう少ししたら戻ってくると思う」
「そうなんだ……」
「おい、姉貴。本当にどこも問題ないのかよ?」


 私の生気を感じられない空返事が気になったのか、晴太がふたたび追求してくる。


「本当に平気だよ。ただ、倒れてびっくりしたというか。まだ頭が追いついていないの。ほら、こんなふうに倒れたの、すごく久しぶりだったから」


 それを聞いた晴太は、はっと肩を跳ね上げた。
 数秒間の沈黙を挟むと、ちょっと気まずそうにおずおずと尋ねてくる。


「その、さ。姉貴が頻繁に倒れてたのって、中二の……純太郎(じゅんたろう)兄ちゃんのことがあったあとの、だいたい一ヶ月間ぐらいだったよな?」


 晴太から発せられた名前に、私は小さく首を縦に動かした。


「うん、それぐらいだった。あの時は雨どころかシャワーの音も、水道から落ちる水滴の音もダメだったなぁ……ははは、は……」


 無理に弾ませようとした声音が、呆気なく萎んでいくのがわかった。


 ――純太郎。
 幼いころから、それこそ生まれた時からそばにいた、私の幼なじみだった人。

 二ヶ月先に産まれた純太郎と、二ヶ月後に産まれた私は、家族同然に育った。

 あの頃は住んでいたマンションも同じ、階も同じ、そして部屋も隣同士で、いつもお互いの家を行き来するほど仲が良かった。

 だけど今はもう、決して会うことはできない。
 中学二年生のとき、彼は死んでしまったから。



「晴太……私、ぜんぜんダメだ、どうしよう」


 ゆっくり体を起こした私は、膝を抱えて弱音を吐く。
 純太郎のことを思い出すと、私は学校のときと違って比べものにならないくらい臆病になってしまう。


「雨もまったく克服できないし、それどころか今日は倒れちゃって。私……本当に進めてるのかな」
「姉貴……」


 晴太は言い淀んでいたけれど、けっきょくはなにも言わずに終わった。
 私って面倒くさいな。自分でもそう思ってしまうのだから、周りからしたら厄介だ。


 進めているのか、なんて問いかけ。そんなものは私自身が知っている。答えはずっと明白だった。

 雨を克服したいとは思う。
 だけど前に進みたいと、心の底から願っているということができない。

 だって私は、今でも自分が許せないのに。
 許せなくて許せなくて、どうしようもないのに。

 だから、PTSDの症状が続いているのに。



 ――中学二年生の、肌寒い秋。

 幼なじみの純太郎を死なせてしまったのは、その原因を作ってしまったのは、ほかでもない私なのだから。





 点滴が終わる頃、祖母の病室から母が戻ってきた。


 起き上がった私の姿を見ると、安心したように笑い、目尻の皺を濃くさせた。
「もう、心配したのよ」と言った母に、私は小さく「ごめんなさい、ありがとう」と呟いた。


 後日カウンセリングを受けることになった私は、検診の予約を終えて病院を後にする。
 少しだけでも祖母の病室に顔を出せれば良かったのだけれど、時間が遅いということで断念した。
 明日は絶対に、学校が終わったらすぐに会いに行こう。


 外に出ると雨はすっかり止んでいて、雲ひとつない空には星がぽつぽつと浮かんでいた。
 

「そういえば……雫の友達、名前はなんていうの?」


 自転車で帰る晴太と駐輪場で別れたあと、車に乗り込んだ私は母の問いに首をかしげた。


「友達って、誰のこと?」
「ほら、保健室に一緒にいたんでしょ? 雫が倒れたとき、そばにいてくれたって友林先生が言っていたわよ」
「私が倒れたとき……」


 頭に複数の疑問符が浮かんできそうになる。

 母がいう『友達』に一切の心当たりがないからだ。
 そもそも今の私には、親しい友達と呼べる相手がいない。

 学校での生活や友人関係については曖昧に濁しているので、母にとってはあずかり知らないことだけど。


「友林先生に名前を聞いておくんだったわ。雫ったら、意識失ったままその男の子のシャツを掴んで離さなくてね。車まで運んでくれたのも、その子なのよ」

「男の子?」

「お母さんも慌てていたからちゃんと見ていなかったけど、綺麗な顔の子だったと思うわ。本当に覚えていない? ああ、それとこれも雫のために被せてくれたものじゃないかしら」


 運転席に座る母は、背もたれを後ろに倒すと後部座席からあるものを取りだす。
 手渡されたのは、アイボリーのカーディガンだった。




「これって」


 その時、半分忘れていた保健室での出来事が猛烈に思い起こされる。


『は、嘘でしょ!? その子吐いたの!?』
『こんなの洗えばいいから。それよりチカちゃん、職員室から岡ちゃん先生呼んできてくんない?』


 それが完全に想起された途端、じわじわと体の温度が羞恥で熱くなっていった。
 ありえない、なぜこんなことを忘れていたんだろう。


「わ、私、どうしよう……!」
「し、雫?」


 ハンドルを握りかけていた母が、動揺した私を何事かと見つめている。

 私はなんてことをしてしまったんだろう。 
 初めて会った人に向かって――吐いてしまうなんて!

 綺麗な顔の子。
 私の真新しい記憶と、母の言葉を擦り合わせる。
 彷彿とよみがえったのは、目鼻立ちのいい男の人の顔だった。
 



 翌日。天気予報専門アプリによると、今日は終日ともに晴れ。さらに朝から初夏並みの気温まで一気に上がるらしい。


 家を出た私は、いつもより一時間も早く学校に到着していた。
 グラウンドと体育館からは運動部員のかけ声、校舎からは吹奏楽部のチューニング音が飛んでくる。


 校門から昇降口までの距離に生徒の姿はなくて、私はどこか新鮮な気持ちになりながら荷物を持ち直した。

 左肩には通学用の鞄を掛け、右手には穴あけ紐通しの紙袋がある。袋の中身は、綺麗に折りたたまれたアイボリーのカーディガンが入っていた。




 昇降口で上履きに履き替え、まず向かったのは職員室。
 ノックを挟んで中に入ると、豊かなコーヒーの香りが鼻の奥をするりと抜けていく。


「おはようございます、友林先生」


 書類とにらめっこしていた友林先生の机に近寄る。
 挨拶された当人は目を瞠って口をぽかんとあけた。
 

「佐山!? お前、体はもう問題ないのか?」


 立ち上がる勢いで腰を浮かせた友林先生に、私は頷いた。


「はい、体はもう大丈夫です。昨日は本当に、お騒がせしました」
「いや、それはいいんだ。良くなったなら何よりだよ」


 私が改めてお詫びを入れたあと、友林先生は神妙な顔つきでこちらを見据える。
 なんとなく、この先の流れを察した。


「佐山、少し聞いても構わないか?」
「はい」
「昨日みたいなことは、日常茶飯事だったりするのか? 正直、かなり驚いたんだ。佐山の事情は知っていたつもりなんだけどな、まさか倒れて病院に運ばれるまでとは思っていなかった」


 尋ねながら先生は、机上に置かれた不気味なご当地ゆるキャラペンを右手に取って器用に回している。
 気まずさからの行動かとも思ったけれど、そういえば教卓に立っているときにも何度か見た仕草だ。癖なのかもしれない。


 だけど、先生が驚いて当然だ。まさか私も倒れるとは思っていなかったので、まだ戸惑っている部分もあるから。




「初めの頃だけだったんです。気を失うとか、そういうことは」

「たしかここに転校してくるまでは、地方に住んでいたおばあさんと一緒に暮らしていたって言ってたな。まさかそれは……」

「はい、そうです。とても日常生活ができる状態ではなかったので、中学二年の途中から祖母の家でお世話になっていました。祖母と暮らし初めてからは、少しずつですが倒れることもなくなったんです」

「……なるほど、そういうことだったのか」


 私の話を静かに聞いていた友林先生は、思案に暮れたようにまぶたを半分ほど伏せる。
 
 思えば転校前に初めて友林先生と会ったとき、私がPTSDと話しても最初から通じていたし、理解ある様子だった。

 まったく縁のない人には「PTSD」という名前を聞いても、なんのことか見当がつかない場合が多いのに。
 でも、今はそこまで珍しいことでもないのかもしれない。最近では医療ドラマとかドキュメンタリーでも取り上げられたりすることもあるようだから。


 そんなことを考えていれば、友林先生が手に持っていたご当地ゆるキャラペンを置いて、再び私のほうを見上げた。


「うん、わかった。教えてくれてありがとうな」
「いいえ、こちらこそ」
「あ、それと他になにか学校側で普段から注意するべきこととか、新しく把握しておいたほうがいいことはあるか?」


 尋ねられた私は、首を横に振った。


「いいえ、特にありません。ほかの生徒と同じように扱ってください。ただ、雨が降ったときだけは……」


 ほかの生徒と同等にと言ったそばからそう付け加えるのがなんだか躊躇われてしまって、語尾が頼りなくなってしまう。
 けれど友林先生は優しげな笑顔を私に向けて、


「雨のときは、無理をしないようにな」

 あたたかい言葉を送ってくれた。
 


「あ……それで、先生に聞きたいことがあって」
「どうした?」
「昨日、私が倒れたときに保健室にいた人、誰だかわかりますか?」

 嘔吐したことの謝罪と、体に掛けてくれていたというカーディガンを返したかった。
 そのために詳細を聞いてみれば、友林先生は絵に描いたような困り顔を作る。

「あー、そうだな。ひとりは、三年の和氣(わき)だ。職員室に来て佐山のことを知らせてくれたのは彼女だ。あとひとりは、宮だよ」
「宮……その人も、先輩ですか?」
「いや、違う。隣のクラスの、宮謙斗」
「宮謙斗……って、もしかして、ミヤケン?」

 上擦った声で聞き返すと、友林先生は「ミヤケンだな」と言ってかすかに笑った。
 昨日の朝にあったホームルームで話題に出ていたミヤケン。
 西棟の多目的室を授業などの使用時以外は開かずの間にしてしまったかもしれない男、ミヤケン。
 保健室で対面した男子の顔と、噂話で耳にするミヤケンを脳内で照らし合わせる。

「保健室にいたあの人が、あのミヤケンなんですか!?」
「保健室にいたあの人が、あのミヤケンだな」

 まさにオウム返しのような受け答えを繰り返す私と友林先生。ミヤケンと聞いてからの私の反応が気になったのか、友林先生は軽く眉をひそめた。

「まさか佐山、宮となにかあったのか?」
「なにか……」

 意味ありげに言われて真っ先に考えたのは、西棟の多目的室のことだ。思ったよりも未練が強かったようで、過剰になっている。
 しかし、友林先生が口にした「なにか」は、私の考えるものとははるかに違っていた。

「こう言っちゃなんだが、宮の評判は教師陣にも知れ渡っているんだ。散々注意も指導もしているが改善された試しがない。だからもし、佐山が宮にちょっかいを出されたりしているんだったら……」
「ないです。ありえません。絶対に。というか、先生は私がどんなふうに学校生活を送っているのか知っていますよね?」

 友林先生が初めに困った顔をしていた理由がわかった。保健室で出くわしたのが、様々な意味を持って有名なミヤケンだったからだ。
 変な心配までされそうになり、自分からいわゆる「ぼっち」だということを告げる羽目になる。
 人付き合いを避けている私が、ミヤケンと接点なんてあるはずがない。

「すまん。いや、本当にすまん。そうだな、先生が悪かった」
「いえ……だけど、私を母の車まで運んでくれたのもミヤケン……宮くんなんですよね?」
「ああ、そうだ。宮のやつ、俺が病院から戻ったあとも校舎に残っていたみたいでな。あの子は大丈夫だった? って、聞いてきたぞ」
「本当ですか? 私……宮くんに向かって思いっきり吐いちゃったので、ちゃんと謝りたいんです」

 口に出すといたたまれない心地になる。
 けれど友林先生は、思い出したふうに「ああ」と軽い反応だった。

「言っておくが、宮は全然気にしてなかったぞ。だからそこまで怯えなくても大丈夫だ」

 他人の嘔吐物をかけられたのに、気にしない人なんて果たしているの?
 それが本当なら、私の中にあったミヤケンのイメージはがらりと変わることになる。

「そんなに、心が広い人なんですか?」
「心が広いっていうか、なんだろうな。まあ、宮は……そういうやつなんだよ」

 よく、わからなかった。
 友林先生はミヤケンに対して、なにか思うところがあるみたいだけれど。



「宮くんって、よく授業をサボる人だって噂で聞きましたけど……やっぱり休むことも多いんですか?」

 どちらにしても、一度は会ってちゃんとお礼を言わないとだし、謝りたい。あとカーディガンも返したい。

 可能なら生徒の目につかないところで声をかけたいけど、そうなってくると場所は限られてくる。

 校門をくぐり抜けたタイミングでこっそりと……なんて思ったけれど、ミヤケンは朝から律儀に登校する人なのか、興味がなかったので知らない。

「サボりが多いけどな、宮は毎日学校には来てるんだぞ」

 思い悩んでいると、友林先生はさらりと教えてくれた。

「そうなんですか?」
「いまの時間なら……たぶん、旧校舎裏の花壇だな」

 友林先生からしてみれば、ミヤケンは隣のクラスの生徒で担任でもない。
 どうしてそこまで的確に把握しているのか疑問だった。
 校内の有名人ともなると、行動を知っていたほうが先生もやりやすいということなのかな。

「花壇、ですね。ありがとうございます。これから行ってみます」

 三年の和氣先輩にも一言お礼を言いたいけれど、三年生の教室にまで行くのは逆に目立ってしまう。
 とりあえず、まずはミヤケンに会いに行こう。

「今日も花に水をあげてるだろうから、すぐに見つかるぞ」

 去り際に友林先生が言った意味を、私は職員室を出たあともしばらく考えた。

 知る人ぞ知る女好きの遊び人。加えてチャラ男や、モテ男子と呼ばれるような人間が、花壇の花に水をあげている?

 昨日の疲れが響いているみたい。変な聞き間違いをしてしまった。

 
 ――聞き間違いなんかじゃなかったと、旧校舎裏に回り込んだ私は思い直す。
 プラスチック製の深緑色に塗られた如雨露(じょうろ)を片手に、ひとりの男子生徒が花壇に水をやっている。

 宮謙斗、ミヤケンだった。

 晴れきった朝の日差しは、柔らかそうに靡く栗色の髪を照らしていて。
 高身長と思われる彼は、低い花壇との距離を縮めるように背中をわずかに丸めていた。

 私はその姿を建物の影に隠れてひっそりと盗み見る。

 はたから見たら完全に不審者だ。けれど、どうにも出られる空気ではない。
 出ようと思えば出られるものの、私の足がすすんで前にいかないのは、困惑してしまったからだ。

「…………」

 瞳に映した彼の横顔は、これまでの醜聞をすべて払拭してしまうような、静謐(せいひつ)な雰囲気に溢れていた。

 保健室にいた人と、目と鼻の先にいる人はまるっきり同じ人物であるはずなのに、なんだか別人に見えてしまう。

 要するに声をかけづらい。それがいつまでも物陰に身を潜ませていた理由である。
 
 ふいに、頭上からバタバタと鳥の羽ばたく音が聞こえた。
 その一瞬で我に返ると、私は紙袋の手提げ紐を強く握りこんだ。

 いつまでもこんなことをしていられない。
 様子を隠れて見ているなんて、相手からしてみればすごく失礼だし気分も悪いだろう。

「ミヤケ……宮くん」

 私は意を決して、花壇に近づいた。




 私の声に反応した彼は横にふっと顔を向け、首をもたげる。
 その瞳が、大きく見開かれた。

「あれ、佐山ちゃん? やっぱり佐山ちゃんだ」

 とたんにミヤケンの顔が明るくなる。
 その場に如雨露を置いて近づいてくるミヤケンからは、先ほどの不思議な空気感が消えていた。

「あはは、驚いた。どうしてここに?」
「友林先生から聞きました。宮くんが、ここにいるって」
「ああー、友っちね。でも、なんで? 俺になんか用?」
「昨日のことで――」
「昨日のこと! そうだよ佐山ちゃん大丈夫? 急に目の前で倒れるから俺かなり焦ってさー。よくわかんないけど校門に佐山ちゃんのお母さんいるし、一応車の中に運んだんだけど、そのあとどうなったのか気になってたんだよね」

 あまりの饒舌さに、私の言葉は完璧に遮られていた。
 
「でも学校に来てるってことは、とりあえず元気になったんだ。いやーよかったよ、ほんとに。だけど一体なにが原因であんなことに――」
「み、宮くん。ちょっといいですか」

 ふたたびマシンガントークになる前に、私は待ってと止める。
 無意識に両手を前に突き出し、体全体でストップを表現してしまった。

「うん、どうかした? つーか、この手面白いねー」
「ちょっ」

 あろうことか、ミヤケンは私の両手に自分の両手を合わせてきた。
 ぱちんと、小さなハイタッチの音が鳴る。

「あ、昨日も思ったけどさ、佐山ちゃんって身長は普通だけどだいぶ軽くない? 手もこんなに細くて小さい。まあ、女の子の手って感じで好きだけど」

 そのまま握られそうになった手を、私は全力で回避した。

「あの……いきなり触らないでもらえますか」

 なに、なんなのこの人。
 距離感は近いし、妙に好意的だし、反応に困る。
 倒れた私を抱えてくれたのは彼で、その感謝は変わらないけれど、今のは黙っていられなかった。

 過剰な防衛本能が顔を出して、つい口調も強くなってしまう。

「って……あー、ごめん。昨日はチカちゃんといたから癖が染みついてて、つい絡んでた。はい、もうなんもしないから」

 チカちゃんって、和氣先輩のことでは?
 つまりそういうことかと思い至るのも億劫で、あえて触れないでおいた。

 そんな私の訝しげな眼差しを受けてか、ミヤケンは反省の色を見せて一歩後ろにさがる。
 彼に警戒しながらも、私はようやく本題を伝えた。

「さっきも言いましたけど、昨日のことを謝りたくて。あとお礼も」

 ミヤケンが話を聞く体勢に入った隙に呼吸を整える。
 軽く上を見あげると、視線がかち合った。


「ありがとうございました。車に運んでくれて、このカーディガンも……掛けてくれたんですよね?」

 ようやく紙袋を渡せたと思えば、ミヤケンは驚いたように目を丸くする。
 受け取って中身を確認すると、さらに驚愕していた。

「なんか、すごい綺麗になってない? いい匂いするし、まさか洗ってくれたとか」

「あの状態ではさすがに返せないですし……私が吐いたせいで汚れていたので。それと、宮くんに向かって吐いてしまって、本当にごめんなさい」

「なーんだ、そんなの気にしてたのか。べつに謝る必要ないでしょ。佐山ちゃん、具合が悪かったんだからさ」

 頭をさげればすぐに楽しげな笑い声が降ってきて、目が点になりそうだった。

 友林先生の話を信じていなかったわけじゃないけれど。
 でも、本当になんとも思っていない素振りのミヤケンには改めてびっくりする。




「宮くんがそう言ってくれるなら、ありがたいです」
「うん、それでさ。俺から佐山ちゃんに聞きたいことあるんだけど」
「……なんですか?」
「昨日のあれって、なに?」

 嫌な予感がすると薄々思っていた。先ほども彼は半分くらい言いかけていたし。
 できれば避けたかった話題だけれど、こんなに堂々と問われたらそれもできない。

「……貧血です」

 答えは用意してあった。
 この学校でPTSDのことを、教師以外に言う気がなかった私は、昨日のことも全部貧血で通すつもりだったのだ。

「ふーん。貧血、ね」
「私の場合はかなり重度のものなんです。ああやって倒れることはほとんどなかったんですけど、昨日は限界がしてしまって」

 本当のことを言えば、奇怪な目で見られるのは分かりきっている。
 だから貧血で押し通すと決めていた。

「いや、つーか昨日のあれ、PTSDなんだって?」

 あっけらかんとした顔でミヤケンが放った言葉に、私は耳を疑った。

 言い当てられた焦りで鼓動が高鳴った。
 こちらを真っすぐと見つめてくるミヤケン。冗談で言っているのとはわけが違う。
 漠然とした発言ではなく、あきらかにそうだと言い切っている口ぶりだったから。

「え、急に……なんですか?」
「いや、実はさ。俺、昨日は夜の七時ぐらいまで学校いたんだよね。そしたら病院から帰ってきた友っちと岡ちゃん先生が廊下で話し込んでるとこ見ちゃって」
「それで……」
「なーに話しんでろーって近寄ったら、佐山ちゃんがPTSDで? 雨の日にはパニック症状になりやすいって聞こえてきて」
「……」
「だから知ってんだけど、あれ。佐山ちゃん?」

 唇を引き結んだ私は、地面に視線を落とした。
 頭部に当たる日差しが暑い。気温が上がり、体温も熱くなっていく。
 どうにか弁解できないかと考えた。けれど、これはもう、むりそう。

 きっと、私が病院に運ばれて、付き添っていた友林先生が学校に戻ってきて、岡本先生と私の話になったのだろう。

 夜の七時ということは、本来ならば生徒は一斉下校で帰っているはず。廊下で話していたとしても、生徒に聞かれることはまずない。
 ミヤケンが残っていた理由はわからないけれど、彼が話を聞くに至った流れはおおいに予想がついてしまった。

「お願い……誰にも、言わないでください」

 ごまかすためのすべを無くした私には、そうお願いすることしかできない。
 お礼と謝罪、借りたカーディガンを返して終わりだと思っていたのに、こんなことになるなんて。

 空を照らす太陽の輝きとは反対に、私の胸の内には徐々に暗い曇天が立ちこめる。
 本当なら誰にも知られたくない。知って欲しくなかったこと。

 けれど、やっぱりそれは難しいみたい。

「おねがい、します」

 ――中途半端な私は、まだ学校に戻るべきじゃなかったのかな。

「――」

 ふと、息を呑む音がして、

「ね、佐山ちゃん。君が隠したがってることをさ……俺から言いふらすとか、絶対にしないから」