罪は流れて、雨粒にわらう



 最悪のタイミングだった。
 これだからいつ誰が来るか予想のつかない保健室は油断ならない。

 どうして今入ってくるの、と思いそうになったけど、咄嗟に打ち消した。
 ううん、違う。私の都合で入ってきた生徒に胸中で八つ当たりするのは間違っている。


「そうそう。岡ちゃん先生、職員室にいるんだよね。だから一時間ぐらいは戻ってこない」
「ええ〜、ほかに誰か入ってきたらどうするのよ?」
「ベッドから男と女の声が聞こえてくれば、察してくれるでしょ」
「あははっ、謙斗(けんと)サイテー」
「うそうそ。具合悪い子が来たら、俺が手取り足取り看病を……」


 不愉快な会話だった。
 でも、ひとりの声は妙に聞き取りやすく感じた。

 だからこそ余計に、話の内容が丸わかりで引いてしまう。

 入ってきた生徒は、おそらく男女の二人組。どんな目的で保健室に訪れたのか知りたくもないけど、近くに感じる人の気配に私は激しく動揺した。


「……っ」


 体に力を込めて起き上がる。目の前の視界が揺れて気持ちが悪い。

 その時、ブレザーのポケットに入れていたスマホが「ブーッブーッ」と振動をはじめる。――電話だ。


「あれ、先客いた感じ?」


 音に気づかれ、男の声が迫ってくる。私は慌ててスマホをポケットの上から握りこんだけれど、もういろいろと手遅れだった。

 きっと着信は母からだと思う。校門まで迎えに来てくれたのだろう。

 そして、いつまでも鳴り止まない振動音からは、母の焦りが感じ取れた。
 雨が降ったため、私を心配してくれているんだ。


 私は床に足をつき、ふらふらと歩き出す。

 同時に締め切っていた間仕切りカーテンが、誰かの手によって開け放たれた。




「あれ、君……」


 相手と目が合った。
 彼はひとつのまばたきを落とし、私は反射的に顔をうつむかせ、その視線から逃れた。


「隣のクラスの子じゃなかった? たしか春に転校してきた」


 目の前に立ちはだかるのは、見知らぬ男子生徒。
 アイボリーのカーディガンを腰に巻いて、襟元を緩めた気崩しは、なんとなく浮ついた印象を残した。
 

「……あの」


 そこ、どいてください。
 そんな短い言葉すら今は出せなかった。

 この人は言った。私のことを、隣のクラスの子と。
 私はA組なので、彼は二年B組の生徒なのだろう。


「ん、なんか顔色真っ青じゃん。具合悪いの?」
「ねえ、その子。あたしらが来たから出ていこうとしてたんじゃない?」


 鞄を手にした私の姿に、もう一人の女子生徒が言う。
 女の人は三年の先輩だ。ネクタイの色が赤だから。


「えーと。名前は、佐山ちゃんだったっけ? 横になってたのに起こしてごめんね。俺らは出ていくから、早くベッドに戻って」


 心底申し訳なさそうな様子に、私は耳を疑った。
 入ってきたときに聞こえていた軽薄そうな物言いから一変して、彼の言葉には労りがある。

 本当にさっきの声の人かと疑ってしまうほどに。


「いい、です。もう、帰るので……」


 振り絞った声は、ひどくかすれていた。


「帰る? そんな状態で? いやいや、無理でしょどう見ても」
「そこ、どいてください」


 今度は言うことができた。けれど、目の前の彼は一歩も引かずに立ち止まったままだ。




「今にも倒れそうになってる癖になに言ってんだか。岡ちゃん先生呼んでくるからさ、大人しく寝てなよ」


 彼の言うことは、真っ当なものだった。
 現に意識が飛びそうになっている。

 こんなこと、この街に住んでから初めてのことで、本当は恐怖に押しつぶされそうだった。


「……迷惑、かけたくないので。あとはどうぞ、ごゆっくり」


 母の車に乗るまでの辛抱だ。こんな状態で表の校門を歩けば悪目立ちしてしまう。
 電話をかけて、裏門に車を回して欲しいとお願いしよう。


「待てって」


 保健室から逃げ出そうと踵に力を込めた時、私の腕は強く掴まれていた。


「も〜謙斗ってば。その子がいいって言ってるんだから、放っておけばいいのに」
「ごめんねーチカちゃん。でもこんな状態の女の子、俺としては見過ごせなくてさー」


 その貼り付けたような空笑いが、なんだか癪に触る。
 心配してくれているのは、わかっている。だけど私は、見ず知らずの他人に迷惑をかけたくない。


 こんな姿も、見られたくはなかった。


 
「……離してっ!」


 彼の手を強く振り払おうとした瞬間、胃の奥から込み上げるものを感じた。


「……っ、うえっ」


 突然の吐き気に対処する余裕もなく、私は目の前に立つ彼の胸部目掛けて思いっきり嘔吐をしていた。


「は、嘘でしょ!? その子吐いたの!?」
「あー……みたいだねー」
「みたいだねって、ちょっと謙斗。汚いって、離れなよ!」
「こんなの洗えばいいから。それよりチカちゃん、職員室から岡ちゃん先生呼んできてくんない?」
「あたしが!?」
「そ、よろしく。チカちゃん先輩」


 ふわふわと、低い声が響く。

 妙に引き付けられるその声を耳にしていれば、途中でふっと意識が遠のいていった。





 ***






 意識が浮上していく感覚に、身をよじる。


「ん……」


 私は眉間に力を込めながらまぶたを開いた。
 ちょうど真上にあった天井の照明がまぶしくて、きゅっと目をすぼめてしまう。


「姉貴!」
「晴、太……?」


 ガタッと物音がして、ぼんやりとしていた視界は晴太の顔で埋め尽くされる。
 今朝と変わらない制服姿の晴太。その瞳が弱々しく震えていた。


「……えっと」


 覚醒しきれていない頭で考える。
 たしか私は学校にいて、雨が降ってきて、保健室に駆け込んで、それから――そう、倒れたんだ。


「あああ……」


 順序立てて思い出した私は、やってしまったと、顔を両手で覆い隠す。
 すると、左腕に繋がれていた点滴が、カシャンと音をたてて動いた。


「姉貴、どうした? 頭痛いのか?」
「違う、違うの。ただ、ごめん……晴太。また迷惑かけちゃった」


 不甲斐なくてたまらない。しばらく気を失うほどの事態になったことはなかったのに。


「なに言ってんだよ、姉貴。迷惑とか、そんなの今はどうでもいいんだよ。体の方はなんともないんだよな?」


 怒った口調で晴太が言う。
 私は顔から両手をのけて、晴太の顔を見つめた。


「……うん、大丈夫。もう苦しくないよ。ありがとう」
「そっか」


 晴太は安堵の息をこぼして、ほのかに表情をゆるめた。


「ここ、病院だよね? 私は倒れたあと、どうなったの?」
「校門で待ってた母さんの車で病院に向かったんだよ。救急車を呼ぶよりかは早いって。俺はあとから知って、さっきチャリでついたばっかり」


 晴太の話によると、私は保健室で意識を失ったあと、母の車に乗せられたらしい。

 担任の友林先生も付き添ってくれていたようだけど、私が目覚める前に学校に戻ったという。

 意識はなかったはずなのに、うっすらと運ばれていた記憶がある。友林先生が運んでくれたということだろうか。


 だけど、なにか忘れているような……。
 頭に霧がかったような違和感。しかしなかなか思い出すことができなかった。





「それで、お母さんは?」
「ばあちゃんの病室。もう少ししたら戻ってくると思う」
「そうなんだ……」
「おい、姉貴。本当にどこも問題ないのかよ?」


 私の生気を感じられない空返事が気になったのか、晴太がふたたび追求してくる。


「本当に平気だよ。ただ、倒れてびっくりしたというか。まだ頭が追いついていないの。ほら、こんなふうに倒れたの、すごく久しぶりだったから」


 それを聞いた晴太は、はっと肩を跳ね上げた。
 数秒間の沈黙を挟むと、ちょっと気まずそうにおずおずと尋ねてくる。


「その、さ。姉貴が頻繁に倒れてたのって、中二の……純太郎(じゅんたろう)兄ちゃんのことがあったあとの、だいたい一ヶ月間ぐらいだったよな?」


 晴太から発せられた名前に、私は小さく首を縦に動かした。


「うん、それぐらいだった。あの時は雨どころかシャワーの音も、水道から落ちる水滴の音もダメだったなぁ……ははは、は……」


 無理に弾ませようとした声音が、呆気なく萎んでいくのがわかった。


 ――純太郎。
 幼いころから、それこそ生まれた時からそばにいた、私の幼なじみだった人。

 二ヶ月先に産まれた純太郎と、二ヶ月後に産まれた私は、家族同然に育った。

 あの頃は住んでいたマンションも同じ、階も同じ、そして部屋も隣同士で、いつもお互いの家を行き来するほど仲が良かった。

 だけど今はもう、決して会うことはできない。
 中学二年生のとき、彼は死んでしまったから。



「晴太……私、ぜんぜんダメだ、どうしよう」


 ゆっくり体を起こした私は、膝を抱えて弱音を吐く。
 純太郎のことを思い出すと、私は学校のときと違って比べものにならないくらい臆病になってしまう。


「雨もまったく克服できないし、それどころか今日は倒れちゃって。私……本当に進めてるのかな」
「姉貴……」


 晴太は言い淀んでいたけれど、けっきょくはなにも言わずに終わった。
 私って面倒くさいな。自分でもそう思ってしまうのだから、周りからしたら厄介だ。


 進めているのか、なんて問いかけ。そんなものは私自身が知っている。答えはずっと明白だった。

 雨を克服したいとは思う。
 だけど前に進みたいと、心の底から願っているということができない。

 だって私は、今でも自分が許せないのに。
 許せなくて許せなくて、どうしようもないのに。

 だから、PTSDの症状が続いているのに。



 ――中学二年生の、肌寒い秋。

 幼なじみの純太郎を死なせてしまったのは、その原因を作ってしまったのは、ほかでもない私なのだから。





 点滴が終わる頃、祖母の病室から母が戻ってきた。


 起き上がった私の姿を見ると、安心したように笑い、目尻の皺を濃くさせた。
「もう、心配したのよ」と言った母に、私は小さく「ごめんなさい、ありがとう」と呟いた。


 後日カウンセリングを受けることになった私は、検診の予約を終えて病院を後にする。
 少しだけでも祖母の病室に顔を出せれば良かったのだけれど、時間が遅いということで断念した。
 明日は絶対に、学校が終わったらすぐに会いに行こう。


 外に出ると雨はすっかり止んでいて、雲ひとつない空には星がぽつぽつと浮かんでいた。
 

「そういえば……雫の友達、名前はなんていうの?」


 自転車で帰る晴太と駐輪場で別れたあと、車に乗り込んだ私は母の問いに首をかしげた。


「友達って、誰のこと?」
「ほら、保健室に一緒にいたんでしょ? 雫が倒れたとき、そばにいてくれたって友林先生が言っていたわよ」
「私が倒れたとき……」


 頭に複数の疑問符が浮かんできそうになる。

 母がいう『友達』に一切の心当たりがないからだ。
 そもそも今の私には、親しい友達と呼べる相手がいない。

 学校での生活や友人関係については曖昧に濁しているので、母にとってはあずかり知らないことだけど。


「友林先生に名前を聞いておくんだったわ。雫ったら、意識失ったままその男の子のシャツを掴んで離さなくてね。車まで運んでくれたのも、その子なのよ」

「男の子?」

「お母さんも慌てていたからちゃんと見ていなかったけど、綺麗な顔の子だったと思うわ。本当に覚えていない? ああ、それとこれも雫のために被せてくれたものじゃないかしら」


 運転席に座る母は、背もたれを後ろに倒すと後部座席からあるものを取りだす。
 手渡されたのは、アイボリーのカーディガンだった。




「これって」


 その時、半分忘れていた保健室での出来事が猛烈に思い起こされる。


『は、嘘でしょ!? その子吐いたの!?』
『こんなの洗えばいいから。それよりチカちゃん、職員室から岡ちゃん先生呼んできてくんない?』


 それが完全に想起された途端、じわじわと体の温度が羞恥で熱くなっていった。
 ありえない、なぜこんなことを忘れていたんだろう。


「わ、私、どうしよう……!」
「し、雫?」


 ハンドルを握りかけていた母が、動揺した私を何事かと見つめている。

 私はなんてことをしてしまったんだろう。 
 初めて会った人に向かって――吐いてしまうなんて!

 綺麗な顔の子。
 私の真新しい記憶と、母の言葉を擦り合わせる。
 彷彿とよみがえったのは、目鼻立ちのいい男の人の顔だった。
 



 翌日。天気予報専門アプリによると、今日は終日ともに晴れ。さらに朝から初夏並みの気温まで一気に上がるらしい。


 家を出た私は、いつもより一時間も早く学校に到着していた。
 グラウンドと体育館からは運動部員のかけ声、校舎からは吹奏楽部のチューニング音が飛んでくる。


 校門から昇降口までの距離に生徒の姿はなくて、私はどこか新鮮な気持ちになりながら荷物を持ち直した。

 左肩には通学用の鞄を掛け、右手には穴あけ紐通しの紙袋がある。袋の中身は、綺麗に折りたたまれたアイボリーのカーディガンが入っていた。




 昇降口で上履きに履き替え、まず向かったのは職員室。
 ノックを挟んで中に入ると、豊かなコーヒーの香りが鼻の奥をするりと抜けていく。


「おはようございます、友林先生」


 書類とにらめっこしていた友林先生の机に近寄る。
 挨拶された当人は目を瞠って口をぽかんとあけた。
 

「佐山!? お前、体はもう問題ないのか?」


 立ち上がる勢いで腰を浮かせた友林先生に、私は頷いた。


「はい、体はもう大丈夫です。昨日は本当に、お騒がせしました」
「いや、それはいいんだ。良くなったなら何よりだよ」


 私が改めてお詫びを入れたあと、友林先生は神妙な顔つきでこちらを見据える。
 なんとなく、この先の流れを察した。


「佐山、少し聞いても構わないか?」
「はい」
「昨日みたいなことは、日常茶飯事だったりするのか? 正直、かなり驚いたんだ。佐山の事情は知っていたつもりなんだけどな、まさか倒れて病院に運ばれるまでとは思っていなかった」


 尋ねながら先生は、机上に置かれた不気味なご当地ゆるキャラペンを右手に取って器用に回している。
 気まずさからの行動かとも思ったけれど、そういえば教卓に立っているときにも何度か見た仕草だ。癖なのかもしれない。


 だけど、先生が驚いて当然だ。まさか私も倒れるとは思っていなかったので、まだ戸惑っている部分もあるから。




「初めの頃だけだったんです。気を失うとか、そういうことは」

「たしかここに転校してくるまでは、地方に住んでいたおばあさんと一緒に暮らしていたって言ってたな。まさかそれは……」

「はい、そうです。とても日常生活ができる状態ではなかったので、中学二年の途中から祖母の家でお世話になっていました。祖母と暮らし初めてからは、少しずつですが倒れることもなくなったんです」

「……なるほど、そういうことだったのか」


 私の話を静かに聞いていた友林先生は、思案に暮れたようにまぶたを半分ほど伏せる。
 
 思えば転校前に初めて友林先生と会ったとき、私がPTSDと話しても最初から通じていたし、理解ある様子だった。

 まったく縁のない人には「PTSD」という名前を聞いても、なんのことか見当がつかない場合が多いのに。
 でも、今はそこまで珍しいことでもないのかもしれない。最近では医療ドラマとかドキュメンタリーでも取り上げられたりすることもあるようだから。


 そんなことを考えていれば、友林先生が手に持っていたご当地ゆるキャラペンを置いて、再び私のほうを見上げた。


「うん、わかった。教えてくれてありがとうな」
「いいえ、こちらこそ」
「あ、それと他になにか学校側で普段から注意するべきこととか、新しく把握しておいたほうがいいことはあるか?」


 尋ねられた私は、首を横に振った。


「いいえ、特にありません。ほかの生徒と同じように扱ってください。ただ、雨が降ったときだけは……」


 ほかの生徒と同等にと言ったそばからそう付け加えるのがなんだか躊躇われてしまって、語尾が頼りなくなってしまう。
 けれど友林先生は優しげな笑顔を私に向けて、


「雨のときは、無理をしないようにな」

 あたたかい言葉を送ってくれた。