晴田見家に住むようになってしばらく経つが、その部屋に呼ばれたのは、数える程だった。少し緊張しながら、アオはふすまに向かって呼びかけた。
「お爺様、青です。ご所望のケーキをお持ちしました。入ってもよろしいでしょうか」
「おう、ありがとよ。入れ入れ」
「失礼します」
ふすまを開けて、二つのケーキが載ったお盆を持ち、部屋に進み入る。
晴田見家は、基本的には和風の造りである。外から見ると格式高い日本家屋に見える。だが、内部は場所によって、和風と現代風が入り混じっていた。元々子ども部屋があり、ほんの一時ではあったらしいが、椿が両親と住んでいた区画は現代風。居間や普段使う台所、アオの部屋のある辺りは、和風の造りである。
そして、晴田見虎太郎の居室は、その和風の区画の最奥にある。
「帰ってくるのが早えじゃねえか。夜中になるかと思ってたぜ」
寝室に続くふすまは閉められている。その手前の部屋、座敷で虎太郎は、将棋を指していたらしかった。
椿と同じはしばみ色の目が、面白がるようにアオを見ている。
「……色々と、ありまして」
邪魔にならないように、ケーキの皿と湯呑みを卓に置いて、アオは虎太郎の前に正座した。ちなみにケーキの一つは、アオのものである。
「お話があるとのことですが」
「あぁ、ある。だが待て。あとちょっとで解けそうなんだ。ケーキは先食ってていい」
改めて見ると、将棋盤の横には、新聞の切り抜きがあった。詰将棋だろう。松田がはさみで切り抜いているのをたまに見かける。
許しが出たのでケーキに手をつけていると、将棋盤をにらんだまま、虎太郎は言った。
「デートはどうだった。映画だか見に行くって言ってたな?」
「面白かったです。元々、漫画として発表されたものの映画化だったので、筋は知っていたのですが、声や動きがつくと、同じシーンでもまた違った感動がありました」
「そりゃ映画の感想だろ。デートとしては?」
デートという言葉に抵抗感がわくが、否定まではできない。
「……楽しかった、と思います」
「いいねえ。希彩はどこ連れていっても、文句ばっかり言いやがったからな」
希彩は、虎太郎の妻、椿の祖母である。アオが来た時には既に鬼籍に入っていた。晴田見グループを裏から支えた大人物であり、かなり苛烈な人物だったと聞いている。
「あ、こういうことか……」
虎太郎は将棋の駒を動かし、少しして満足気に顔を上げた。
「さてと」
いそいそとケーキを口に運ぶ。
アオの側には、特に急ぐ用はない。だが、こうして呼び出されたことがあまりないので、切迫感がある。
「……あの、お爺様」
「んん?」
「お呼びいただいた場で、私から話をするのは失礼とは、承知しているのですが……一つだけよろしいでしょうか」
「お前さん、いつまで経ってもかたっ苦しいよなぁ。何だい。言ってみろ」
「このところ、いたらぬ点が多く、一度真面目に謝罪をせねばと思っておりました。申し訳ございません」
さすがに喜多野に告白された直後に比べればミスは減ったが、考え事をしていて、無意識に虎太郎の呼びかけを無視していたこともあった。
「何だ、そんなことか。構うな構うな。空斗も零子も、散々寝小便したり駄々こねたりしたが、一度も謝りゃしねえぜ」
空斗は椿の父、零子は叔母である。さすがに並び立てられるのは気が引ける。
「それとこれとは……」
「同じことだ」
恩に着せようとしない、少しからかうような言い方は、椿に似ている。
正確には、椿が虎太郎に似ているのだろう。
どういう訳か詳しくは知らないが、椿は幼い頃、自ら、両親ではなく虎太郎とともに住むことを選んだらしい。恐らく椿は、両親といるよりも、虎太郎といる時間の方が長い。
「まあだが、娘だからこそ、改めて聞かなきゃなんねえこともある」
本題に入る気配に、背筋がのびた。
「そろそろ将来は見えてきたかい」
口の中に残ったケーキの甘さが、胸焼けしそうなくらいに濃くなったように感じた。
目を伏せて、言葉を選ぶ。
「……まだ、です。もし進学するなら、就職するならと、選択肢に合わせて、目星をつけてはおりますが。そのどちらにするかまでは……」
「ほう。お前のことだから、椿と同じ大学行く、って即答するかと思ってたわ」
ぐっと喉が詰まる。
「それも選択肢にはあります。ですが、椿様の将来を考えた時、おそばにいることだけが、役に立つ方法ではないように思ったのです。中学や高校への進学と違い、私にできることも、ずっと増えますから」
「んで?」
「……その、役に立つ方法で、迷って。決めかねている、状況です」
虎太郎はお茶を飲み、長く息をつく。
「椿には相談したのか」
黙って首を振った。
「自分で方法見つけようとする姿勢もいいが、本人に聞くのが手っ取り早いとは思わねえのか?」
それは考えたが、聞けていない。
「椿様はいつも、私のしたいことをするように、と仰るので。きっと進路に関しても、そう仰るかと思います」
「それなら、青がしたいことをすんのが、一番あいつのためになるんだろうな」
自然と肩がすぼまる。
「私は、椿様のお役に立ちたいんです……」
いたずらをした子供を許すように虎太郎は笑った。
「そうさなぁ」
欺瞞も甘えも見透かされている。恥ずかしさを覚えて、頭を下げた。
「……すみません。先程、椿様ならこう言うから尋ねていない、と申し上げましたが。それだけでなく本当は、椿様に、青は不要と明言されることを、私は恐れているのだと思います。今はまだ、椿様の求めに応えられておりますが、これから先、椿様が就業なさった後には、私の能力が及ばず、椿様にご不便を感じさせてしまう局面も来るはずです。また、能力が足りても、それ以外の面で私の存在が不都合となることもあるでしょう。……結婚、など」
伴侶のそばに異性がいることを、酷く嫌がる人物がいると聞いたことがある。今のところ椿の近辺に、そういった人物はいないようだが、現れないとは言い切れない。
「そしてそれを、椿様も予見していることと思います。……忠臣であろうとするならば、主人に不便を感じさせる前に自ら離れるべきなのでしょうが、それもできず。椿様の意志を確認することから逃げ、先延ばしにしています」
「ふぅん」
「それに……私という個人は、本当に今のままでいいのかという疑念もあります。一人、一つのものに依存している状態は、一般には、健康的とは言えないのではないかと」
「なるほどねえ」
恐る恐る顔を上げて、はしばみ色の目を見返す。
虎太郎は片頬を上げた。
「そこまで自分で考えてんなら、俺から言うこたぁないな。言葉だけでなく、行動にもしているようだし」
安堵と、助言を求める心が入り交じる、複雑な気分でその言葉を聞いた。
「お前の力でどうにかしなきゃなんねえとこ以外は、全部こっちでどうにかしてやるからよ。その調子で、よっく考えて、動け。考えるだけじゃあ変わらんからな」
「……はい」
「不満そうだな」
反射的に否定したくなるが、それは意味がないと、押し留めた。不満に思っていること自体は事実だ。
落ち着くため、息をつく。
「お爺様に対してではありません。皆様に充分に報いることができない、自分自身の不甲斐なさにです」
自分の言葉で、納得する。確かに現状に対する不満は全て、身から出た錆だ。誰のせいでもない。
何もかもが、望みに足りない気がする。
飢えている。
能力や、覚悟、それ以外の気づくことすらできていない何か。環境は充分すぎるほどに与えられているにも関わらず、何故かいつも心もとない。
下手をすれば、椿のそばにいたいという思いすらも、足りていないのかもしれない。
「お前はどうなったら、充分だって思えるんだい?」
かちん、とケーキを切ったフォークが、皿に当たって音を立てた。
アオは咄嗟に答えられなかった。
「椿や松田や俺が、泣いてお前さんを有難がるようになったら、充分か」
「そ、そんなことは全く!」
「じゃあ、会社の利益を上げたらか」
「それが望みと言われれば、尽力はいたしますが」
自分が晴田見グループの一社に入ったところで、劇的なまでの成果を上げられるとは思えない。ただ、現状での最善手はそれかもしれないと思っている。それならば、直接的ではなくとも、椿のために役に立てるはずだ。
だが、これこそ自分の進む道だとは決め切れない。
「……充分とは、思えない、かも知れません」
うなだれて、笑われてすねる。
すねはしたものの、言われたことは分かる。
「ありがとうございます」
「昔は説教臭くなりたくねえと思ってたが、どうにも言いたくなっちまうもんだねえ。かわいいかわいい娘との会話を、心置きなく楽しみてえのに。ほれ、ケーキ食え。食いながらデートの話もっと聞かせな」
「嫌です。ケーキはいただきます」
もらった言葉を噛み締めながら、甘さを飲み込んだ。