映画を見るよりも、他にするべきことがあるはずだという考えが、頭から抜けない。喉を通っていく炭酸の痛みが、浮かれているようで気に障る。

「アオさん、たぶんだけど、連絡来てない?」

 ストローから口を離し、バッグを見た。膝の上に振動を感じる。小さな通知の明かりに、ふっと心まで明るくなるのを感じた。

「ありがとうございます!」
「映画始まる前で良かったね」
「はい!」

 気づかせてくれた喜多野に心から感謝しながら、スマートフォンを手に取った。
 今日、椿はまた直前までアオには黙って、父親の会社の取引先から招待されたピアノのコンサートに行っている。まだ開始を待っている頃だろう。
 挨拶する前に取引先の父親とその娘に関する情報を聞きたいのか、ピアノの当たり障りのない感想を事前に考えさせたいのか、それとも退屈しのぎか。何でもいいやとメッセージアプリを開く。
 そこにあったのは、椿の名前ではなかった。

「大丈夫? 急ぎの連絡だったら、全然、行ってもらっていいよ」
「ううん、大丈夫……」
「本当に大丈夫? 遠慮しなくていいからね。俺も、その方が気が楽だし」

 休日に遊ぶのはこれで三度目だが、その間にも喜多野は繰り返し、椿を優先していいと言ってくれている。
 マナーモードからサイレントモードに切り替えてバッグにしまい、アオは首を振った。

「お爺様から、おつかいの連絡でした。すみません、あとで地下のケーキ売り場に寄ってもいいですか?」
「もちろん。……アオさんの言うお爺様って、晴田見さんだよね? あ、アオさんも晴田見さんだけど」
「はは。言わんとしていることは分かります。医療機器の製造から始まり、現在では手広く産業機械を手がける、国内外で名高い晴田見グループの創業者の、晴田見虎太郎様です」
「はー。何か、不思議な感じ。悪い意味じゃないんだけど。そういう人が同じ街に住んでて、同じ店の物買ってるかもしれないって考えると。アオさんにはあんまりピンと来なかったりするのかな、こういう感覚」
「いえいえ。私も、三組に、保護者が俳優であるという方がいると知った時、同じことを思いました」

 それに、アオが晴田見家に住むようになったのは、小学四年生の頃だ。それまではアオも、社長や俳優などとは縁のない人生を送っていた。
 ふと頭上の明かりが消えて、画面が映画の予告に切り替わった。自然とお互い、口をつぐむ。
 ぼんやりと画面を見ていると、椿が楽しみにしていた映画の予告がかかった。
 以前であれば、帰ったら話の種にしようと思うところだが、今は話をすることで、椿の貴重な時間を奪ってしまわないかという方が気にかかる。椿は好きなものの情報は逐一チェックする方だから、予告は既に見ているだろう。アオが「面白そうだった」などと伝えたところで、あまり意味があるとも思えない。
 飲み物に手をのばす。
 先程から何度か手に取っているはずなのに、中身はほとんど減っていない。自分でも無意識だが、恐らく、ストローを口に含んで、ほとんど飲まずに置いて、また手に取るということを繰り返している。
 退屈ではないが、何か物足りない。
 ポップコーンも買えば良かったと思った。

 電車に乗り込むと、昼を少し過ぎたばかりだからか、座席はかなりの割合が空いていた。
 アオと喜多野は隣り合って腰かけた。
 最寄り駅までバッグを持つと喜多野が言ってくれたため、アオはバッグを喜多野に預け、代わりに虎太郎に頼まれたケーキを膝に置いた。
 アオの中には、最初に声をかけてくれた椿が第一の存在としてあるが、養子にして家に置いてくれている虎太郎と、何くれとなく世話になっている松田も、ほとんど椿と同じくらいに敬いの対象だ。帰る途中までにケーキを倒してしまったら、相当に落ち込む。喜多野の申し出は、大変にありがたいことだった。
 だが、だからと言って、三人以外の人物を蔑ろにしていいとは、アオも思っていない。

「喜多野くん、ありがとうございます。今度行く時には、どうか私に奢らせてください」

 アオは改めて、隣に向かって頭を提げた。
 特に今の時期、ケーキは持ち運びに向かないことを忘れていた。映画を見終わったら軽く食事でもしよう、と話をしていたにも関わらず、何も考えずにケーキを購入してしまった。結局喜多野の厚意で、何も食べずの帰路である。

「や、いいよいいよ。ご飯くらい大したことじゃないから」
「私の都合を優先していただけることが、ありがたいので。このご恩は必ずやお返しします」
「武士かって。そういうところが好きだけど」

 恥ずかしさだけでない感情で、顔が熱くなった。

「本当に気にしないで。またがあるって言ってくれるので、充分嬉しいから」

 アオに告白してから、二人でいる時に喜多野は好意を隠さなくなった。
 喜多野に言わせれば、アオがやっと気づくようになっただけ、らしいが。
 喜多野は一年の頃から、アオが好きだったそうだ。アピールもしていたらしい。だが、アオは全くそれに気がつかなかった。
 思い返せば一年生、二年生の頃は、椿に害をなす人物、役に立ちそうな人物がいないかという、身元調査や下地づくりに集中していて、椿に関係しなさそうなことに対しては、その場限りのリアクションだけで処理していた。
 きちんと自分自身にまつわる人間関係にも意識を向けようと思ったのは、進路を意識し始めた二年の中頃からだ。
 それでも、人から向けられる好意や恋愛については、あまり考えなかった。
 途方に暮れるような、所在のない気分になって、ケーキの箱を見る。

「でも、これくらいで恩とまで言ってくれるアオさんが、椿さんに何をしてもらったのかは、正直気になるかもな。椿さん、学校で見かけたことあるけど、さすがに話したことはなくて」

 喜多野が椿の話題にしてくれて、心底ほっとした。

「……あまり詳しくは話せないのですが。誇張なしに、椿さんには、人生を救っていただいたんです」

 母親に虐待されて、家に入れず、公園でぼんやりとしていたところに、声をかけてくれた。
 椿のおかげで、辛いだけだった過去は、椿に会うための時間に変わった。
 当時のことはいくらでも話したいが、実際に話すと困惑させることは、経験上知っている。喜多野の気になっていそうな顔には気がつかなかったことにして、椿に感じている恩については、話すのを止めた。

「それがなかったとしても、椿さんは尊敬に値する方です。損得勘定なしの、芯からの優しさを持っている方です。荒っぽい言葉をお使いになるので、時々誤解されることはありますが、それもご自身の家柄によって、相手に壁を感じさせないようにという気遣いで。本当はとても慎重に、他人のことを気遣っている、聡明な方です。下僕である私のことも、出会った頃から今まで、ずっと思いやってくださっています。今朝も、私がネックレスをつけるのに手こずっていたら、ご自分も出かける前で忙しかったのに、つけてくださって」

 一人で出かけるようにはなってしまったが、椿の態度は変わらない。むしろ以前より、アオを気にかけてくれているような気がする。ネックレスだけでなく、髪や服の皺など、全体の身だしなみも確認された。自分はどうでもいいと言いながら。

「いくら感謝しても、感謝の念が尽きないんです」

 心の底から笑う度、美味しい食事をする度、傷のない自分の体を見る度に、人生が変わった夜のことを思い出す。
 その日だけではない。迷惑とは知りながらも、恩を返したいという一念で晴田見家に押しかけた後も、椿はアオの思いを酌んで、アオにもできるような小さな仕事を見つけて、アオに頼んでくれた。晴田見家に馴染めるように、無理のない範囲で、アオを使ってくれた。
 実の母から引き離されたはいいものの、施設でも、他人の世話になる申し訳なさで縮こまって、自分の居場所を見つけられていなかったアオにとって、自分の存在が人のためになっているという感覚は、何より心を癒やした。
 他人のために何かしなければという焦燥感、何の役にも立たない自分には存在価値がないという絶望感は、いつしか消えた。

「……椿さんのことを話しているアオさんは、表情が豊かになるな」

 全く喜多野の様子を見ていなかったことに、その言葉で気がついた。

「すみません、一方的に話してしまって。気をつけるようにはしていたのですが」
「いいよ。むしろもっと喋って」
「え、いいんですか?」

 思わず喜んでしまったが、一般的には、その場にいない、しかもよく知りもしない人物について話されるのは、苦痛であるはずだ。
 喜多野の優しい顔に、喜びと、少しだけ恐れを抱く。
 喜多野は苦笑した。

「一緒にいて分かってきた。たぶん俺は、アオさんのその表情を好きになったんだけど。今のところ、その表情を見られるのは、アオさんが椿さんについて考えてる時だけっぽい」

 言われた途端、自分の表情に意識が向いてしまい、かえってどういう表情をしていたのか分からなくなった。

「表情、ですか。何だか恥ずかしいですね……」
「いい表情だよ。俺だけでなくて、みんな言うと思う」
「みんな?」

 中学の頃は、椿のことばかり話しすぎて人が離れてしまうこともあったので、アオはその言葉をやや疑ってしまう。疑いの視線を向けられても、喜多野は訂正しようとはしない。

「……進路、前に悩んでるみたいなこと言ってたけど」

 どきりと心臓が嫌な音を立てた。
 だが、喜多野の笑みは、あくまで穏やかだった。

「俺は……いや、俺は椿さんのことよく知らないし、アオさんが悩んでる理由も分かってないし、俺の意見なんか、聞き流してくれていいんだけどさ。アオさんには、椿さんの秘書とか部下とか、とにかく椿さんのためにって働いていてほしい。アオさんに限らずだけど、好きな人とか、好きなもののために働くのが、結局一番幸せそうな気がするし」
「……ありがとうございます」
「まあ、いつか、椿さんの半分以下でもいいから、俺のことも好きになってくれたら、ちょっと嬉しいかな」

 咄嗟に謝罪が口をついて出そうになって、慌てて止めた。
 アオは喜多野のことが好きだ。これを恋というのかは分からないが、目が合うと少し緊張するし、一緒に出かけるのも楽しめるようになった。
 だが、それは到底、椿への思いには並び立たない。
 そして、喜多野がいいと言っても、アオはそれに申し訳なさを覚える。

「喜多野くんはそれでいいんですか? 私は、人と付き合ったことがないので、推測になってしまうのですが……好きな相手が一番大切にしている人が、自分ではないというのは、あまり気持ちの良いことではないのでは……。大切にしているのが、親や兄弟ならばともかく」

 サンプルは学校で漏れ聞く会話、漫画、そして椿の蔵書である。
 喜多野は軽く首をかしげた。

「椿さんって、アオさんにとって兄弟みたいなものじゃないの? ごめん、よくは知らなくて。兄弟くらい仲の良い幼なじみ、って感じだと思ってた」

 がたん、と電車が揺れた。

「……まあ、そういった認識でも、構いません」
「そうじゃなかったとしても、いいけどね。恋人よりアイドルの方が好きとか、家族より仕事がとか、珍しいことでもない。一番好きではない人と結婚するってこともあると思うし」

 具体的に言われてみると、確かに、と思う。ただ、それで気が楽になるということはなかった。

「俺は、何と言うか、俺のことが好きっていう人よりは、そういう何かに夢中になっている人の方が、いいなと思うから。あんまり気にしなくていい。って言っても、アオさんは気にするんだろうけど」
「そうですね。お返ししなくては、とは思ってしまいます。いただいたものと、できるだけ釣り合うような、何かを……。すみません、喜多野くんの、その気持ちを、量として計るつもりはないのですが」
「アオさんは真面目だね。ちょっと、悪い意味で」

 色々な人に、何度か向けられたことのある苦笑だ。

「その義理堅さ、俺にとっては都合いいけど。さすがにちょっと、弱みにつけ込むみたいで、気が引けるかな」
「……すみません、どういうことですか?」
「例えば今日みたいなことがあった時、お詫びにあれして、これして、って言いやすくなる。アオさんはアオさんで、多少無茶なお願いでも、後ろめたいから聞こうとする。付き合って、は無理でも……とか」

 冗談に変えるような笑みを浮かべて、喜多野は話を区切った。

「そう考えると、アオさん、その「救った」のが、椿さんで良かったな。事情がよく分からないけど、もし悪い奴だったら、すーごい都合良く使われてそう。ヤバいブツとか運ばされそう」
「私も仕える相手は選びますよ」
「やーどうかな。例えばアオさん、椿さんのためだったら、何でもしそうだし。あんまり普通の善悪では考えられてない気がする」

 その言葉で久しぶりに思い出す。
 小学生の頃、ある日アオは偶然、椿が学校で陰口を叩かれていることを知った。小学校は別だったため苦労しながらも、アオは何とか陰口を叩いた同級生を炙り出して、こっそりとその同級生が逆に陰口を叩かれるように周囲に悪い噂を吹き込んで、転校寸前まで追いこんだ。結局発覚して、しこたま叱られた後、アオは人間の気持ちや善悪を学んだ方がいいと、椿に漫画や小説、絵本を与えられた。

「……」
「無言は無言で怖いな……」
「確かに、椿さんと会った頃は危なかったかも知れません。良かったです」
「終わり良ければ全て良しだから」
「そうですね」

 会話の境で電車が駅に停まり、沈黙が流れた。乗ってくる人はおらず、車内の人はさらに少なくなった。
 最寄り駅まであと一駅だ。最寄り駅以降は、帰る方向が違う。

「喜多野くん、返事、なんですけど。まだ……あと少し、待っていてもらっても、いいですか」

 返事がなかったので、恐る恐る横をうかがった。喜多野はアオを見ていた。

「いいよー。いくらでも待ってる。何なら、卒業した後でも」
「さすがに卒業までは待たせないです!」
「どうせもう少ししたら、彼女とか彼氏とか言ってられなくなるし」

 夏の気配が迫っている。
 友達の中には、受験に集中するために、彼女と会うのを控えていると言う人がいる。

「そうなる前に、言います」
「……本当にいいんだけどな」

 それ以上言う言葉を、アオは思いつかなかった。「そう言えば映画、面白かったね」と喜多野が言う。あからさまな話の転換だったが、ありがたく、アオは話に乗った。