夏と言えど、店を出る頃にもなると、空気は夜に近づいていた。商店街には橙色の光が差し込んでいる。

「遊んだなぁ」

 充実した、と満足していたはずだったが、椿の呟きを聞いて、アオの胸に名残惜しさがわいた。

「海の方も少しだけ、見に行きませんか。ちょうど夕日が差していますから」
「あぁ、それは、今だけだな。行くか。腹ごなしにもちょうどよさそうだ」

 商店街から外れて、ゆったりと歩く。じきに耳をそばだてなくても、波の音が聞こえてくるようになった。
 何てことのない住宅の並ぶ道を抜けていくと、不意に視界が広がった。
 道を挟んで、錆びたガードレールの向こう側に、海が広がっている。
 暗い海に、かすかに橙色が浸食しつつあった。
 一時間と少し電車に乗れば来ることのできる場所であり、県の名産も海産物ではあるが、アオも椿も、海の近くまで来た経験はあまりない。

「海ですよ、椿さん」

 アオの口から空気が漏れる。
 景色として、そう美しい訳ではない。贔屓目に見ても絶景とまでは言えない。住宅のそばにある平凡な海だ。周囲にも人はいなかった。
 だが、アオはこの今を、得がたいものと感じる。
 どうやら車があまり通らない道のようだったので、アオはそっと進み出て、ガードレールのそばに寄った。足場は高く、下を見ると、ごろごろと石が転がっている。高所恐怖症ではないが、少しひやっとする高さだ。

「下に降りられそうな場所がある、あそこに」

 椿の視線の先を追って、アオもガードレールの切れている場所を見つけた。その下は、小さくはあるが、砂浜になっていた。
 そう遠くなかったため、右手側に海を見ながら歩いていく。ガードレールの切れた場所には、砂浜に下りることのできる階段があった。一人が下りられるだけの、石造りの細い階段だ。あまり使われてはいないようで、段の一つ一つに砂がたまっている。

「アオ、荷物全部寄越せ。それ持ちながらだと、危なそうだ」
「大丈夫です。椿さんこそ――」
「さすがに筋力では俺の方が上だし、身長的にも、アオだと足元見づらいだろ」

 自分の荷物に加えて、今は土産の入った紙袋を二つ持っている。確かに、見づらくはあった。

「けれど……」
「あぁもう。命令だ、命令。俺に荷物を持たせろ」

 命令と言われれば逆らう思考はアオになく、自分の荷物と二つの紙袋を手渡した。転ばないように壁に手を添えつつ、心持ち急ぎめに、アオは階段を下りた。砂浜に下りると少し、靴が沈んだ。
 あとから椿も危なげなく下りてくる。
 アオはすぐに荷物を受け取った。

「ありがとうございます」

 軽く階段の砂を払って、そこに荷物を置く。椿の荷物だけは直接地面に置くことがためらわれたので、手拭いを敷いた。後ろから苦笑いが聞こえてくる。

「いくら言っても下僕だな」
「そうですよ。私は椿さんの下僕です。――おお!」

 振り返ると、先程よりも、海ににじむ橙色が強くなっていた。
 アオは波打ち際に近づいた。思いのほか波が近くまで来てしまい、慌てて足を引く。
 しゃがみ込んで、さらさらと遠ざかっていく砂に手を伸ばした。手が濡れる。地球を覆う巨大な水の塊に触れていると思うと、愉快な気分になる。

「アオ。さっき言った話、してもいいか」

 どきりとして、反射的に立ち上がった。

「は、はい。何のお話か分かりませんが、私はいつでも」

 ハンカチで手を拭きつつ、椿のそばに戻る。
 だが、いつもと違う空気に居心地の悪さを覚えて、微妙に距離を取ってしまう。

「あの……椿さん。何、でしょうか」

 まずアオの脳裏によぎるのは、解雇の二文字である。
 現在、アオと椿は正式な雇用関係にはないものの、二人の間で「仕事」と呼んでいるものがいくつかある。例えば、椿が父親の代理で会食などに出かける際の付き人や、参列者の趣味などの調査と報告。今日のように椿が出かける時には、行き先についての情報収集や荷物持ち。これらには、報酬としておこづかいが出ている。また、報酬はないものの、普段の食事づくりや身支度なども、椿には仕事と言われている。
 アオにとっては、全て恩返しのための行為だ。
 だが、あくまでそれを仕事として捉えた場合、アオよりも良い働きをするものは大勢いるだろう。特に、晴田見グループ創業者の孫であり、将来を嘱望される椿となれば、なおさら周囲には優秀な人間が集まりやすい。
 不要と言われるのも仕方がない。
 ささやかでもできることをしていこう、と今のアオは考えているものの、やはり直接言われるのは、辛く感じてしまう。
 解雇以外にも、色々と思いつく。アオ、そして椿自身の進路についての話や、あるいは恋人を作りたいから、そばにいるのは控えてくれ、など。
 失敗に対する叱責は、大抵その日のうちに行われるのでないと思いたいが、断言はできない。
 中々椿が口を開かないので、アオは耐えかねて、恐る恐る呼びかけた。

「椿さん?」
「……アオ」

 自分の不安ばかりに意識を向けていたせいで気がつかなかったが、椿の顔は赤くなっていた。原因は夕日ではない。
 解雇よりも、恐ろしいことを言われると感じた。

「アオ、俺と結婚――恋人になってほしい」

 視界が揺れて、一瞬何も分からなくなった。
 心の震えを抑えるので精一杯になり、立っていられたのが不思議なくらいに、全ての感覚が失せた。

「と、アオが卒業したら、申し込むから。嫌だと思ったらいつでも断っていいが、そうでないなら、卒業まで、待っていてくれないか」

 続いた言葉で呆気にとられて、感覚が戻ってきた。
 尋ねたいことはいくつかあったが、まずアオは素朴な疑問を、呟くように問いかけた。

「……結婚? 恋人?」
「それは間違え、いや間違えてはない! 結婚は……自分一人で生計立てられるようになってから、その時アオの迷惑にならなそうだったら言う」

 将来の椿自身の意向が、結婚の条件に入っていない。
 だが、改めて顔をきちんと見れば、そこには既に、必ず結婚を申し込むと決めている表情があった。
 急に空気が薄くなったような気がする。

「ま、待って、ください……」

 辛うじて言って、アオは足元に視線を落とした。足先に砂のついた靴が二足、向かい合っている。

「恋……?」

 乏しい経験の中から、先日、喜多野の告白を断った時のことがよみがえる。
 その記憶をなぞるようにして辿るうち、口から、言葉がこぼれ出た。

「それは、つまり、恋をしている……ということですか。……椿さんが、私に?」
「そう。アオが好きだ」
「いやらしいことがしたい、と思っている、のですか」
「まあそう……うん?」

 心臓と波の音が入り混じって、自分の口から出ている言葉が分からなくなる。

「そういうことをしたら、椿さんはこれからもわたしをそばに、置いてくれるのですか」

 疑問の形をしているが、疑問というよりは、不安や、苛立ちだ。

「もし、ことわったら……椿さんはもう、きょうみたいにいっしょに出かけたり、下僕としてわたしを使ったり、してくれなくなってしまいますか」

 何を言っているか自分でも認識できなくなっていたが、少なくとも椿に向けていい感情ではないことは確かだったので、自分を殴りたくなった。
 だから、左手に爪を立てた。

「すみません。失礼しました。何でもないです」
「アオ」
「はい」
「手だけ触っていいか」

 ためらいはあったが、荷物を寄越せと言われた時のようには拒めない。

「どうぞ……」

 爪を離して、手錠をかけられる罪人のように両手を持ち上げた。
 手のひらを空に向けさせられる。罪人から、砂漠で雨を待つ人のような形になった。
 そこに何か置かれた。

「アオの趣味が分からなかったから、俺の趣味にはなったけど。アオのために買ったものだ」

 外側は銀、内側は青のグラデーションになっている、指輪だった。色以外、彫刻などは一切ない。
 椿の手が離れるが、アオは硬直して、動くことができない。

「単なる贈り物だ。アオの自由にしていいが……俺としては、今日をなかったことにしないための、証でもある。だから、持っているのも嫌だと思ったら、捨てていい」

 だが、それを聞いて頭の中に火花が散り、咄嗟に指輪を手の中に隠した。

「捨てません! 椿さんが捨てろと言っても、絶対に捨てませんから! 私のものです!」

 指輪を握りしめた手を、胸の前まで引く。鼓動が手に伝わってくる。
 開き直ったように椿は笑っている。

「俺から言いたかなかったが、アオも大概、俺が好きだよな」
「す……好きですよ。主ですし、恩人ですし……家族ですから」
「それはそうなんだろうが」

 椿の言う意味と、自分の言う意味が食い違っていることに、椿の笑みで気がつく。

「ですが、恋、とは。いえ、あの……私の感情がどうかというのは、恋人になるかという話とも、違うのですが」

 言っているうちに訳が分からなくなってきた。

「……すみません、もう一度待っていただけますか。今度はもう少し、まともなことを言うので」

 意識して深呼吸する。
 先程は「待って」と頼んだ割に、全く整理されない内心を、衝動に任せて吐き出してしまった。
 だが今なら、きちんと考えることができるはずだ。
 まだ混乱してはいるものの、手の中にある指輪の感触を確かめているうちに、不思議と落ち着きつつあった。
 改めて考えれば、椿の答えがなくとも、ほとんどの不安は解消される。
 椿は、アオから差し上げられるものが何もなくとも、アオを大切に扱ってくれる。喜多野も同様の優しさを持ってはいたが、喜多野に対して感じるのとは比べないようもない程に、アオは椿を信じている。
 誰にも覆しようのない恩が、胸にある。
 そう考えると、先程の自分の発言は、恋人にならなければ椿はアオを切り捨てるような人間だと、言ったようなものだ。
 自分の失礼さに気がついて、アオは青ざめる。喜多野にも謝らなければならない。

「……アオ、俺が言うのも何だが、あんまり思いつめるなよ。そもそもアオを裏切ったのは俺の方なんだから。思いついたこと、何言ったっていい」
「裏切り? 何のことですか」

 椿と出会ってから十年になるが、その間一度たりとも、裏切られたなどと思ったことはない。当然今もそうだ。
 椿の苦笑がもどかしい。

「主、家族として振る舞っていた人間が、実は違う目で見ていた、というのは裏切りだろう。しかも俺は、アオの忠誠心を都合良く利用して、夜中に部屋に押しかけたり……。挙句の果てにこれ、主から恋愛関係迫るとか、セクハラでパワハラだ」

 おどけているが、掛け値のない本心だと分かる。

「……本当は何も言わず、諦めるべきだった。何度繰り返しても同じことをするだろうが、今、駄目なことをしてるんだ、俺は。こうしてそれをアオに言うのもズルい。全く、駄目」
「椿さんは駄目ではないです」

 咄嗟に否定したものの、椿に言われてから、そのことに気がついた。
 いつからアオを恋愛的に好きだったのか知らないが、日常生活の中で、主とも家族とも違う視線を向けられていたことにまでは、想像が及んでいなかった。
 これからそれを意識するようになるのだということも、考えていなかった。
 喜多野も、友達に戻れるかはアオ次第と言っていた。

「私、が……」

 アオが駄目でないと言えば、丸く収まることだ。
 だが、喜多野と話した時とは、また違う。あの時は、数少ない友人を失うことと比べれば、視線の違いなど大したことがないと思っていたのに、今は迷いがある。
 夜中、自室に訪れた椿を、今まで通りに迎えることができるかと問われれば、きっと逡巡してしまう。椿がアオの嫌がるようなことはしないと分かっていても、緊張は抜けないだろう。
 だからと言って、恋人になれるかと考えると、今は分からないとしか言えない。正直なところを言えば、恋という言葉に良い印象はないのだ。すっかり忘れてしまったはずの、くだらない、恐ろしい、冷たい夜を思い出してしまう。
 それでも、指輪を捨てる気には、絶対になれない。

「椿さん……恋とは何でしょう」

 多くの物語で扱われているもの。椿の婚約者である美鶴が知人に抱くもの。喜多野や椿が自分に向けるもの。父と母の間にあったはずのもの。母が都合よく使っていたもの。
 いまだ、アオにはよく分からないもの。

「もう、かけがえのない人になっているのに、恋人になりたい理由は、何ですか」

 椿は自身の思考を探るように視線をそらした。

「何言ってもいいとは言ったが。恋とは何か、に納得のいく答えを出せたら、歴史に名を残せる」

 からかうようなことを言いながらも、真剣に考えてくれているのが顔つきで分かった。

「まあ……恋人になりたい理由は、答えられそうか」

 アオが聞く態勢になるのを待って、椿は言った。

「あくまで俺の主観になるが、まず、正直に言えば。いかがわしいことをしたい、というのは、ある。今の、血はつながっていないとは言え、叔母と甥。あるいは幼なじみ、友人、主従という関係では、ちょっとしにくいようなことを」
「……は、い」
「ただ、無理にとは言わない。したくないならしない。絶対に。そもそも、俺も言いたくはないが、目的がそれだけなら、必ずしも恋人になる必要はないんだ。人によっては眉をひそめるだろうが、今どきは、裁かれるような罪ではない。ただ、だからこそ。それだけが恋人になりたい理由じゃない」

 怒涛の否定に、おののきながらうなずく。
 椿の肩から力が抜ける。

「一般的にはそこで、相手にとって大切な、かけがえのない人間になりたいから、とかいう理由が追加される気がするが。アオは既に、俺を主として、大切にしてくれている。俺も――」
「そうです! 大切です。椿さんのためなら、私は何でも……操を立てろと言われれば、そうします」

 椿の目がふと、アオに戻ってきた。

「……そうなるのが嫌だから今まで隠してたんだよ」

 さみしそうな目に、アオは言葉を失った。

「あぁ、そうだ。だから。俺はずっとアオと対等になりたかった。主従は上下関係が前提になっている。いくらアオが良いと言っても、主従である限り俺は、アオに無理強いさせる可能性から逃れられない」
「ですが、それは恋人でも」
「そうだな。だが……恋人は、あくまでも対等が前提で、上辺はともかく本質的に対等でなければ、罪になると、俺は思う。いや罪でなくとも、その意識が、俺への戒めになる。加えて、アオが従者として振る舞おうとしたら、それも罪になる」
「無理強いは、今でもないですよ。私は、嫌なことはきちんと嫌と言います」
「うん、アオがそれを気をつけていることは知っているが。俺は弱いんでどうしても不安になる。こと恋愛になると、どんな人間でも冷静さを失う。俺は極力アオを傷つけたくない。……悪い、主らしくなくて」

 最後の言葉で針を飲んだような心地になった。
 選択や決断を委ねることが、相手の負担にもなりかねないことは、アオも知っている。確かに気をつけてはいたが、ただ、椿ならアオが嫌と思うことはしないと、自分を預けきって、甘えてしまうこともあった。忠臣にならねばと思いながら、何やかんやとずっと下僕でいたのは、その優しさが心地よかったからでもあった。
 少し、椿の恐れを理解したような気がした。
 申し訳なく思いながら首をふる。

「……あ。とは言うが。何も、恋人になったからと言って――あるいはならなかったとしても、アオが従者でなくなる訳ではないからな」

 慌てたような声に、顔を上げた。

「少なくともアオが望む限りは、従者としても、扱う。俺もさすがに主として振る舞うのに慣れちまったし……都合が良すぎるから頼りすぎないように自戒していたつもりだったが、今いきなりいなくなられたら、正直困る。身元調査とかやり過ぎの気はあるが、本気で助かってるから。普段は今まで通りで、今日みたいな時は……恋人だとか」

 この期に及んで椿は照れている。それに、不敬だなと思いながらも、かわいいと感じてしまう。

「どちらかである必要はない。どうあっても、アオはアオに違いないんだから。時と場合で、変えればいい」

 その言葉にほっとしながらも、アオは考えを改めた。
 主従のまま、何をしてもいいとアオが言っても、椿の不安は残り続ける。
 今日何度か、仕事ではなく遊びだと言われたが、それと似たことだろう。気持ちが同じでも、その気持ちが収まる枠組みによって、良くも悪くも形は変わってしまう。アオ自身、幼なじみでなく、友人でなく、主人と従者という枠組みを選んだ。
 気持ちは今までと変わらなくとも、椿も恋人という枠組みによって、変えたい何かがあるのだ。
 椿にとっては、確かに、恋人になる理由がある。

「ありがとうございます。恋人になりたい理由は、理解しました」
「あとは、恋とは何か、か」

 目を伏せた。
 椿の頼みは、卒業後に申し込むから、嫌でなければ卒業まで待っていてほしい、というものだった。
 だからアオには、椿と恋人になるか考える猶予がある。恋について考えることもできる。
 だが、今、椿の答えを聞きたい。

「……今すぐでなくても、いいのですが」

 そう思いつつ嘘を言う。椿の難問に向き合うような声を聞くと、今聞きたいとは言えなかった。

「嫌なら断ってもいい、と言われても……私が椿さんを嫌と思うことは、ないのです。けれどきっと、卒業後に、今と同じ、恋が分からないままの私が、今持っているのと同じこの忠誠心と恩義で恋人になるのは、椿さんの望みとは、違うのではないでしょうか。それではきっと、核心的なところは何も変わりません」
「そう……だな」
「だから、今すぐでなくても……恋を、知って。きちんと判断をしたいのです。椿さんが求めているように」

 しばらく考え込んだ後、椿はひとりごとのように言った。

「……恋に触れると人は皆詩人になる、とは言うが」
「プラトンですっけ。椿さんも詩人になりましたか?」
「俺はならん。読むのはいいが、作るのはな……」
「私も、詩人にはなれないと思います」
「……まあでも、アオを好きになってから、その手の詩に共感す」

 ブレーカーが落ちたかように、椿の言葉が途切れた。

「今のくだりなしで」
「顔が真っ赤です椿さん。扇ぎましょうか」
「いい!」

 顔が手のひらで隠される。笑っていると、じろりとにらまれた。

「あぁくそ……言いたくなかったんだが。喜多野とはどうだったんだ」

 自然と口が閉じてしまう。あくまで友人としか言っていないはずだが、何もかも知られていそうな眼光の鋭さだ。
 何となく、心が浮き立つ。

「喜多野くんのことは……好きだとは思います。一緒に出かけるのは楽しかったです。けれど、恋だったかどうかは、分からないです。告白されましたが、断ってしまいましたし」
「え、何で」
「椿さんに呼ばれた時、すぐに駆けつけられないのが嫌で。とは言え、恋人に対してそういう態度を取るのも、喜多野くんが良いと言っても、私は罪悪感を感じてしまうので。……あぁ、確かに、一方的に良くされるのは、不安ですね」
「ふーん。なるほど」

 何を納得されたのだろうと疑問に思ったが、問いかける前に椿は言った。

「恋人になりたい理由に、ひとりじめしたい――されたい、というのもあったな」

 少し考えて、アオは首を傾げる。

「好きなものをひとりじめしたい、は分かりますが、されたい、ですか?」
「アオに置き換えると……俺以外に仕えるな、って言われたら、嬉しかったりする?」

 心臓が、大きく跳ねた。
 お役御免となる場面は何度でも想像したが、その逆、椿のそばにいることを強制されるような命令など、考えたことがない。
 そしてそう言われる場面を想像すると、胸が熱くなる。

「嬉しいです……が、そんなことを言ってはいけませんよ」

 理屈はないが、それは駄目だと、感じる。良くない。下僕としては叱らなければならない。
 可笑しそうな笑みが少し苛立たしい。

「大体そんな感じ。……さっきあげた指輪への反応は、良かったな。忠誠心だとしても」

 はっと思い出して、恐る恐る手を広げた。
 ずっと握りしめていたせいで指輪はほのかに温まっている。
 見ていると、じわじわと頬が熱くなった。
 椿からの贈り物であるという一点のみでも、宝物にするに余りある価値がある。
 だが、改めて考えると、指輪は恋愛という場においては、目に見える束縛の証だ。ほとんど「俺以外に仕えるな」と言われているのに近い。
 駄目だと思うのに、惹かれる気持ちを抑えられない。
 あくまで従者でなく、アオに贈られたものだからと、言い訳を思いついてしまう。
 恐る恐る、指にはめようとするが、手が震えて上手く入らない。
 指輪を椿に差し出した。

「あの、椿さん……これ、私の手につけてください」
「え。いやそれは」
「つけてください。お願いします。それで何か、分かる気がするので」

 半ば無理やり指輪を受け取らせて、両手を、手の甲を上に向けて出す。

「えー……と。……つけろって言われたからつけるんだからな。あと、卒業後までは告白しないから。これをどう扱うかは、アオの自由意志に任せるから。……我ながら、往生際が悪いな」

 ぼやかれながら、左手の薬指に指輪が通された。
 いつの間にか日は大分落ちて、反射する光が足りず、指輪はそっと静かにそこにある。
 アオは右手で指輪をなぞった。
 ひとりじめにされている。
 そして同時に、椿をひとりじめにしている。
 恋人にならなくても、椿は主でいてくれるだろう。
 だが、恋人にならなければ、この指輪は主から下僕へのただの贈り物になり、ひとりじめの証ではなくなってしまう。
 忠誠と恩義でできているはずの心に、揺らぎが生まれた。初めての感覚ではない。進路について悩んでいる間、特に、椿との関係について考えていた時にも、同じ感覚を味わっていた。
 役に立ち、恩を返すだけでは、本当は満足できない。ずっとそばにいて、自分が役に立ちたい。椿の喜ぶ顔を、自分の目で見たい。
 忠臣になるには余計だと、抑えつけた欲求。
 指輪を見ていると、その欲求が、抑えつけた手の下から漏れ出す。
 気持ちがしゃぼん玉のように漂い、ぱちりと弾けた。

「……恋」

 言葉の舌触りが変わっている。

「ありがとうございます……」
「あー……こちらこそ? サイズ合ってる、よな?」
「はい。ぴったり、です」

 椿の両手をつかんだ。

「椿さん」

 ベンチに座って、一人途方に暮れていた夜。
 サイズの合わないコートを肩にかけ、隣に座って、椿は両手を取ってくれた。
 そして、名前を呼んでくれた。
 「クソガキ」としか呼ばれなかった自分を、名前で呼んでくれた。
 「あ」と「お」しか言わないから、「あお」。そのままだと簡単すぎるから、漢字にして「青」。
 忌々しかった無意味な名前は、椿に呼ばれた瞬間に、宝物になった。
 将来、この選択は正しくなかったと後悔するとしても、椿の望みと異なる結果になってしまう未来を知っていたとしても、今はそれ以外に選べない。

「椿さん。――卒業まで、待っています。卒業した後もずっと、おそばにおります」

 言うと、ほんの少し息が楽になった。涼しい風が頭に巡る。
 下僕など抜きにして、気持ちだけ言えば、シンプルだ。
 いつもはあまり話したがらない詩について、うっかり話してしまうくらいに、椿が心の底から話しているのであれば、自分もそうするべきではないかと思い立つ。指輪の感触に背を押されて、思うままのことを声に載せた。

「椿さんのおかげで、私は私を、愛せるようになりました」
「だが、それは……」
「最後まで聞いてください。確かに、根底には恩義があります。ですが、それだけではなくて」

 恋が人を詩人にするのなら、今この場で恋をしたい。今感じている思いを、全て椿に伝えたい。

「自分を愛せるようになったから、私は、私を大切にしてくれる人を、好きだと感じるようになりました。ありがとう、だけでなくて、ただ、単純に……好きだと」

 恩を返そうと思う癖はいまだに残っているが、それとは別だ。喜多野に告白された時も、純粋に嬉しかった。
 ただ、それを受け入れることはできなかった。
 既にその席は埋まっていたからだ。
 喜多野にはもう一つ、謝らなければならないかもしれない。いつでも椿に応じられるように、自分が恋人として不適格だから、という理由は、今思い返せば間違いだった。自分自身も気づいていなかったとしても、不誠実な答えだった。
 何となくそうしたくなって、椿の両手を軽く揺らす。

「恩義でもない、忠誠心でもない、家族としてでもない、青という個人の好きが、あるんです」

 伝わっている自信はなかったが、話すこと自体が楽しい。抑えつけられて窮屈さを味わっていた心が、広がっていくようだ。

「そして、何でもないただの青は今、椿さんの言葉を、とても嬉しく思っています。……未熟なせいで、その感情が、友情なのか、親愛なのか、性欲なのか、恋なのか、はっきりと分けることは、まだできないのですが」

 その未熟さが不甲斐ないとは、不思議と思わなかった。

「卒業までに、恋だけは分かるようになっておくので。どうか、私の好きにさせてください。椿さんのそばにいることだけが、ただの青の、唯一の願いなのです」

 つかんでいた両手を、軽く握り返された後、やんわりと外された。

「……卒業まで待ってくれ、としかまだ、俺は頼んでないからな」
「そうでした。じゃあ、待たせてくださいね。椿さんが私のことを好きでなくなって、約束を取り消したくなっても、卒業までは、待たせてください。私からのお願いです」

 椿は何も答えなかったが、これに関してはアオは椿の命令があっても聞かないことにしたので、問題ない。

「他に話はありますか?」

 椿はコンタクトがズレでもしたのか、目元を指で抑えた。

「とりあえず、終わりでいい」
「では、帰りましょう。……日が落ちてしまいましたね。せっかくの夕焼けだったのに」

 夕焼けの一番美しい時間は、話しているうちに過ぎてしまった。日は水面に沈みかけ、空の端は藍色に欠けている。
 こっそりと荷物を拾おうとしたが、先に取られてしまった。
 仕方なく手ぶらで階段を上る。

「いつかまた、恋人と一緒に見てください」
「あぁ? おい。何だその他人事みたいな態度」
「私とは限らないので……」
「何でだよ。アオ以外にいないだろ」
「え? まだ恋かどうか、確定していないじゃないですか。……今は私も、できれば私と一緒がいいなぁとは思いますが、単なる忠誠心かもしれません」
「いやどう考えてもアオは」

 背後から深いため息が聞こえた。

「……いやうん。卒業まで、恋かどうか、ちゃんと見極めてくれ。元々、そのために取った時間だから」
「あ、私の受験のためではなかったんですね」
「それもあるが。まあアオなら、こっちの話のせいで集中できない、ってなることはないだろ」

 荷物を受け取り、来た道を戻る。

「そうですね。大体いつも、椿さんのことを考えているので、あんまり変わりないかもしれないです」
「……そういう話じゃねえけど、まあいいや」

 何か間違えてしまったらしいが、どことなく椿の声が明るく、また遊びの日でもあったので、アオは自分を許すことにした。
 たまにはこういう日もいいと、浮かれながら帰途に着いた。